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聖霊会について ~Who We Are~

聖霊会 共同創立者 福者ヨゼファ・ヘンドリーナ・シュテンマンス 5月20日

喜びと 人々への配慮にひいでたマザーヨゼファ

2020-05-16
イッスムにある マザーヨゼファの生家
 2008年6月29日、聖霊会の母院のあるオランダ、シュタイルの属する町、テーゲレンで行われた「列福式」において、マザーヨゼファは「貧しい人と病者への奉仕と、多くの宣教修道女の養成に生涯を捧げた尊者」と宣言されました。
 彼女は1852年5月28日、ドイツのライン川下流地方のイッスムという小村で生まれました。神のこと、聖人と守護の天使の話を聞く時が一番幸せという子どもでした。一方で、母を手伝って家事をこなしたり、母が自分のために焼いてくれた小さなロールパンを、近所の独居老人にあげたりして愛徳を実践しました。
 ヘンドリーナの特徴は陽気なことと喜びでした。学校を卒業すると彼女は、7人の弟妹を抱える母の家事を助け、日に何時間かのはた織りをして家族と、家を新築していた父を助けました。また彼女には村の困っている人への目と心があり、村のすべての病人を見舞って村にはいなかった看護師の役目を果たし、豊かな家庭の患者から受けた贈り物はすぐ、貧しい人々にあげました。彼女はよく霊的慰めも、内的苦しみや隠された痛みも読み取って、忠告や慰めを与えたので、村人たちは彼女を信頼していたといいます。
 
 
生家の入口にあるプレート
 自分を完全に捧げてもっと親密に主に従いたいという望みから、彼女は19歳でフランシスコの第三会に加わりました。貧しいアシジのフランシスコの弟子としての12年間は、彼女の人間形成に決定的な影響を与えました。しかし聖フランシスコの弟子としても、彼女は自分のゴールにたどり着けませんでした。彼女は、修道生活と神との一致についての教えを深く吸収するほか、修道院で自分を完全に捧げて、もっと徹底的に釘付けられた主に従いたいという望みが大きくなるのに気付きました。けれどもこの当時ドイツはビスマルクによる文化闘争の時代となり、キリスト教は迫害され、修道院は国外に追われ、その道は断たれたかのようでした。
 最終的に道は、オランダ、シュタイルに向けて開かれました。ふしぎな導きで、1880年、ヘンドリーナはシュタイルの神言会で行われた聖霊降臨の40時間の礼拝に参加します。そこで彼女は、神への奉仕として、神のみ摂理会の修道女たちの台所の使用人として働いていた、のちのシスターアンナ、テレジア・シッケを見かけました。ヘンドリーナの心には、自分も彼女のようになりたいという思いが湧きました。3年後、もう一度そこを訪れた時、宣教修道女となるためにシュタイルへ来たヘレナ・シュトレンベルクが、テレジアと共に働き、祈っている姿を見かけました。彼女たちに加わるという望みが神のみ旨かと、真剣に自分の心に耳を傾けました。そして宣教神学院に、まず使用人として受け入れを願う手紙を書き、その願いは受け入れられました。彼女は32歳になっていました。
 1884年2月12日ヘンドリーナは、まだ存在していなかった修道会を待っていた他の人びとに加わり、神言会の宣教神学院の使用人となり、厳しい労働に従事しながらも、祈り黙想、霊的読書など、修道生活の日程をこなしていきました。5年間の待機の生活は彼女にとって砂漠の体験でしたが、その中で彼女は困難に耐え、神の意思を喜びにあふれて果たすことを身につけていきました。1886年の夏には、この志願者たちの群れは、神言会の敷地内の小さな家に移り、修道会創立に一歩進んだかに見えました。
 1889年12月、新しい修道院に移り、創立者が正式に修道会設立を宣言したときに、ヘンドリーナはすでに3人の仲間とともに、修道会の責任を担う共同創立者であり、また若い志願者の志願長でした。
1892年1月17日彼女は修道服とシスターヨゼファという名前を授かりました。1894年3月12日11名の同志と共に、7年間の誓願を立てました。1898年まで彼女は副修院長,志願長を務め、またすべての仕事の組織化や家業の面倒を見ました。その後で修院長となり、帰天するまでその役職に留まりました。彼女は1901年終生誓願を立てました。 
 彼女は聖霊に対して特別な愛と崇敬を持ち、聖霊から度々任務のために光と力を願っていました。彼女は「神なる聖霊よ、あなたの愛と栄誉のためにわたしは全生涯を捧げます。」と祈るのが好きでした。また、「聖霊のはしためは、一息ごとに『聖霊来てください』と祈るはずです。」とも言っています。
 その後、マザーヨゼファは喘息を病み、1903年5月20日に帰天しました。彼女の顕著な徳の思い出は、年と共に生き生きと増していきました。特に聖霊会の中で彼女の聖性の評判が続いたので、1950年ルールモントの司教は列福の調査をはじめ、ブラジルで起きた、マザーヨゼファの取次ぎによって致死の病から解放された男性の治癒が、奇跡と認められ、カトリック教会によって正式に、マザーヨゼファ、ヘンドリーナ・シュテンマンスが福者と認められて、冒頭の列福式が行われたのでした。マザーヨゼファの祝日は、彼女が天に召された記念日5月20日とされました。

新型コロナウイルスによる HSMAの説明会の日程の変更について

名古屋地区での説明会を 5月31日 に予定しておりましたが、変更して 7月19日 に実施します。 東京は予定通り 7月4日 の予定です。なお、今後の感染拡大の状況によって変更の可能性がありますことをご了承ください。

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神言会 最初の宣教者 聖ヨゼフ・フライナーデメッツ 1月29日

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故郷でのヨゼフ

2020-01-29
神学生時代の聖ヨゼフ・フライナーデメッツ
オイエスにある、聖ヨゼフの生誕記念教会
 「福神父」と、中国の人びとから敬愛をもって呼ばれた、神言会最初の宣教師、聖ヨセフ・フライナーデメッツとはどんな方だったのでしょうか。1月29日がこの聖人の祝日です。
 ヨセフ・フライナーデメッツは、1852年4月15日、オーストリア領、南チロル、ドロミテの高地のオイエスという小さな村で生まれました。この渓谷の人びとは少数民族のラディン族に属していて、ヨセフもラディン語を話していました。父ジョバン・マッティアと母アンナ・マリアとの間には11人の子どもがいて、ヨセフは4番目でした。家族は小さな農場を持ち、生計を支えていました。日常生活はカトリックの伝統に深く根付いていて、一日は家庭祭壇の前での「お告げの祈り」で始まり、全員で唱える「ロザリオの祈り」で閉じられていました。父は子供たちを毎日村から20分もかかる教会へ連れて行きました。
 1872年ヨセフは神学校へ入学し、1875年司祭として叙階されました。ブリクセンは宣教精神に満たされて、世界に開かれた都市であったこと、ヨセフも学校と神学校時代に宣教者との交流を育てた教師に出会っていたこともあり、宣教師としての召命をはっきり感じていました。

神言会初の宣教師、中国に派遣される

2020-01-29
 1878年1月、教区報でシュタイルの宣教会(のちの神言会)についての報告を読んだとき、ヨセフは宣教師になる決意を固めました、その年の8月27日ヨセフは創立間もないシュタイルの宣教神学院に入り、1979年には、彼よりも先に神学院で学んでいたヨハン-バプティスタ-アンツァーと共に神言会第一号の宣教師として中国へ派遣されました。香港で初めて中国の土を踏んだのは、4月20日でした。
イタリア人宣教師ピアツォリの指導の下に、ヨセフは西貢(サイクン)で2年間の「宣教師の修練期」を始めました。神学院で学んだ中国語は香港では役に立たず、広東語を一から学びなおさねばなりませんでした。ピアツォリ師に同行した最初の宣教旅行では、蚊、蝿、のみ、しらみに悩まされましたが、「宣教師とは、人々と共に暮らし、生活上のあらゆる不便さを分かち合い、善き訪れを宣言する声になること」と教えられました。そして、ピアツォリ師の指導は「この国の人を愛することを学ぶ」という唯一の科目に集約されていました。
 間もなく総会長アーノルド・ヤンセンが折衝をし、神言会に宣教をゆだねられた南山東省へ移動する時が来ました。先に山東省に行っていたアンツァー師と合流し、坡里(パオリ)に本部を置くことにし、そこを拠点に巡回宣教を始めました。山東省南部は、ヨーロッパ人がほとんど訪れたことのない広大な地域で、ヨセフは続けて数週間、まれには数か月をかけて、半盲の中国人信徒と共に村から村へと巡回し、その地域や地区、多くの人々のことを知り、中国人、彼らの考え方、伝統と慣習、性格と気質を学びました。シュタイルから共に派遣されたアンツァー師を常に上に立て、ヨセフは副の座にいました。 1886年ヨセフは終生誓願を宣立しました。この誓願を通して彼は自分の人生を全く、永遠の希望である死の後の生命も、中国の人々と一致させました。

宣教師としての生きざま

2020-01-29
 19世紀半ばヨーロッパの植民地政策が最高潮に達したころ、ドイツ帝国の強引なやり方での搾取に、中国人は屈辱を感じ、地方官僚は外国人への憎悪に駆り立てられ、宣教師たちは中国文化と儒教組織を破壊する侵略者と認識され、1887年11月若い二人の神言会宣教師が刺殺されました。1900年義和団の暴動が起きた時、宣教師はより安全な海岸地域に避難するよう命令されました。当時使徒座代理区長代理だったヨセフは、自分の牧する人々を気にかけ、パオリの宣教本部に残って、そこに逃げてきた孤児や信者たちの世話をするつもりでしたが、兄弟会員の反対にあい、説得されて兄弟たちと共に出発したものの、20キロほどで引き返してきました。その後ヨセフは襲ってきた人びとに殴られ、半死半生になりながらも生き延びました。
 この暴動も治まって宣教師たちがそれぞれの宣教区に戻った1900年夏、総会長アーノルド・ヤンセンは、これまでアンツァー司教が兼務していた管区長職をヨセフに委ねました。彼は会員に母としての配慮を示し、亡くなるまで真剣にこの任務を果たしました。宣教の経験を通して、カテキスタ(要理教育の指導者)の必要性を確信していたヨセフは、その養成に力を入れ、また一時期神学校の校長をも務めました。彼はまた、地元の中国人司祭たちと信頼関係を保ち、教会上長に差別をなくすよう進言し、神言会にも中国人受け入れを願い出ました。教会上長が最初の中国人司教を任名するまで10年を要し、1946年には神学生として、ヨセフを知っていたトマス・田がピオ12世によって最初の白人でない枢機卿に選ばれただけでした。田枢機卿はヨセフについて「彼の祈る姿はわたしの記憶の中に永遠に焼き付いています。彼は祈りの偉人でした。彼の信心の深さは開かれた者であり、熱情を起こさせました。」と言っていました。
 1907年1月28日は、神言会の中国における銀祝の記念日でした。25年前、ヨセフは、アンツァー司教と共にプオリに最初の宣教所を開いたのでした。当時コレラが蔓延し、神言会の宣教者をはじめ、多くの人々が死に追いやられていたので、ヨセフも病人の世話をもしていましたが、自身もそれに感染し、1908年1月28日載家(タイキア)で高熱にうなされながらもイエスのみ心、自身の保護の聖人への祈りを唱えながら息を引き取りました。

宣教者の模範、聖ヨゼフ

2020-01-29
私たちのする小さなことは、神が私たちになされることとは比べようもない
 聖ヨセフ・フライナーデメッツの生涯は、理想的で熱心な若い宣教師から、香港と山東省での挫折した宣教師へ、それから再び愛の言葉を話すことを学んだ宣教師への驚くべき回心への発展の物語です。チロルの山岳地帯の息子が1879年4月に香港で下船した時、彼はこれから哀れな異教徒を救い、偶像崇拝や不信仰を根こそぎにすると確信していました。彼は人を救うため、洗礼を授け、悪霊や悪魔と戦うために母国の小教区を離れましたが、しかし誰も彼に興味を示さず、誰も会いたいと思わず、洗礼を願う者はなく、彼のメッセージに興味を示しませんでした。かれらは鼻の高い外国人を見たいと思っただけでした。彼のことを「外国人の悪魔」と呼びました。故国では彼は司祭として尊敬され、栄誉が与えられ、人々に受け入れられていました。しかしここでは、誰もどうして彼がそこにいるのか、関心もないように見えました。それらの日々を振り返って 彼はこう書いています。「来る日も来る日もわたしが見聞きし、体験したことは,度々これまで持っていた確信とはまるで反対でした。」そしてその挫折を、彼が救うために来た中国人のせいにすることもありました。ヨセフは彼の時代の人で、他の宗教について考える余地がありませんでした。宣教師とは、カトリックの信仰のために霊魂をかちとることという彼の目的を達成できないために失望し、挫折したのでした。
 彼の個人的な失望、不成功は、彼に何が間違っていたか、自分がどんな宣教方法をとって来たかを考えさせました。中国服を着ることが彼を新しい人にはしなかったことに気づき、何をすべきだったかを理解し始めました。山東省で彼は、香港では欠けていたこと、中国人と、彼らの習慣としきたり、ものの見方、彼らの文化と言語を知ることに努めました。その結果は、彼らを知れば知るほど彼らをますます評価し、尊敬することになり、真に彼らを愛し始めました。もちろんその過程は苦しいものでしたが、こうして彼は偉大な宣教師になりました。この回心によってヨセフは中国人の心を得、彼らは彼を信頼し始め、彼と共にいることを望み、彼は愛の言語を学び、彼の中国人と共に永遠への道を進みました。彼は愛する中国人と永遠まで共にいることを望みました。ヨセフはそれまで以上に神に近づき、当時の兄弟会員たちと中国の全宣教者の模範となりました。山東省に二人の宣教師が到着した時、158人だった信者数は、27年の間に受洗者は20万人、求道者は4万人を超えていました。
 1975年ヨセフ・フライナーデメッツは神言会創立者アーノルド・ヤンセンと共に教皇パウロ6世によって福者に挙げられ、2003年教皇ヨハネ・パウロ2世によってアーノルド・ヤンセンと共に聖人の列に加えられました。 

聖霊会の創立者と共同創立者

「聖霊の恵みの力の中ではすべてが可能である」

創立者聖アーノルド・ヤンセン
アーノルド・ヤンセン神父、彼は単純な人間でした。彼の心はただ一つの目的「神のみ旨」のために向かっていました。彼はドイツ、ミュンスター司教区のゴッホという小さな町に生まれ、1861年24歳のときに司祭に叙階されました。彼の責任感をもって働く確固たる人格と、三位一体の神に深く根ざした信仰によって、その後12年間教鞭をとるかたわら、キリスト信徒一致のためにいかなる苦労も旅行もいとわず、大きな熱心をもって信徒の中に「祈祷の使徒会」を広めようと努力しました。このような祈りと働きをとおして次第に海外への宣教に深い関心を抱くようになりました。
最初の聖ミカエル宣教神学院
19世紀後半は混乱した時代であり、ヨーロッパの国家主義、帝国主義、植民地主義の絶頂期でした。1871年、ドイツのカトリック教会はビスマルクの新ドイツ帝国の文化闘争に巻き込まれました。新しい除外法(Exclusion laws)は継続的にそして徹底的に司祭、修道者、カトリック教会の活動を縮小させていったのでした。そういった政治的悪条件にあり、人的・物的資源もとぼしい中で1875年、神がお望みになるならできるとの深い確信のうちに、国境を越えてオランダのシュタイルにドイツでははじめての布教神学院、「神言会」を創設しました。最初から何もかも不足していたにもかかわらず、彼は仲間の者と共に質素な生活に耐えながら外国宣教のために日夜祈りと犠牲を重ねていくのでした。
共同創立者 福者マザーマリアと  福者マザーヨゼファ
そののち、宣教活動は宣教修道女の援助がなければ非常に困難であるし、自分の会と連携した会の修道女とともに働くならば、他の者と働くよりも一層の効果と一致団結を得られると考えた彼は1889年、ヘレナ・シュトーレンベルク(のちのシスターマリア)とヘンドリーナ・シュテンマンス(のちのシスターヨゼファ)の協力を得て本会を創立しました。あらゆる宣教の仕事が本質的には聖霊のみ業であり、啓示であるとの創立者の確信により、本会は聖霊に捧げられ、「聖霊奉侍布教修道女会」と名づけられました。
格子の奥で祈りと働きを私たち宣教会のために捧げる永久礼拝会のシスター
 アーノルド・ヤンセンにとって、祈りの支えのない宣教活動は無意味でした。そこで彼は本会創立の7年後の1896年、「永久礼拝の聖霊奉侍修道女会」を創立し、たえまない礼拝によって神言会と聖霊会の宣教活動の上に神の祝福を願う務めを与えました。
 このシスターたちはその聖服の色からピンクシスターと呼ばれ、私たちはブルーシスターと呼ばれています。ピンクシスターたちは格子の中で、沈黙のうちに祈りと働きの奉献生活を送ります。
聖アーノルドの石棺
アーノルド・ヤンセン神父は三つの国際的修道会の創立者として1909年1月15日、静かにこの世を去りました。彼は布教神学院を設立しようとしていた当初、彼を知っているほとんどの人から、しかも仲間からさえも、そのような大事業のためには不適当と思われていました。けれども多くの試練や困難にもかかわらず、神のおん助けを信頼しながら母なる教会に対する愛に燃えつくされました。1975年列福され、2003年列聖の恵みをいただきました。シスターマリアは1995年に、シスターヨゼファは2008年に列福の恵みをいただきました。

11月28日は聖霊会の共同創立者 福者マリア・ヘレナの祝日です

本会の霊性 ~Spirituality~

福音宣教はイエス・キリストを起源とします。
父と子と聖霊という三位一体の神の生命、愛の交わりにすべての人を引き入れたいとの御父のお望みを果たすため、イエスは聖霊に導かれて働かれましたし、今も働いておられます。
本会創立者のモットーは「聖なる三位一体の神が、私たちとすべての人の心のうちに生きますように」でした。
三位一体の神の交わりが、私たち会員のうちに目に見えるものとして表れるように、また御父のこの招きに漏れる者がないように世界の果てまで伝えに行く、という私たちの会の独自性がこのモットーに表れています。

ビデオクリップ—英語版

創立者聖アーノルド-英語版
 聖霊会125周年(2014年)
神言会の最初の中国への宣教者 聖ヨゼフ・フライナーデメッツ-英語版
ピンクシスターたちの生活-英語版

日本管区の紹介

日本管区の歴史

1908(明治41)
5名のシスターが創立者に派遣されてシュタイルから秋田に到着
私立楢山幼稚園(現・聖霊幼稚園)を開園
1909(明治42)
私立女子職業学校(聖霊中学・高校の前身)開校
1910(明治43)
秋田・育児部(児童養護施設)開設(~1933)
1914(大正3)
金沢聖霊病院開院
1933(昭和8)
金沢聖霊愛児園開園  日本準管区本部を秋田から名古屋に移転
名古屋市昭和区に、八事本部修道院開設
1937(昭和12)
日本人会員初の海外宣教派遣(ブラジルへ)
1939(昭和14)
東京支部設立
1945(昭和20)
昭和区萩原町に聖霊診療所、修道院開設
1947(昭和22)
聖霊病院を現在地(川名山)に開院
1948-1952
中国の政治事情から、21名の会員が日本へ転出
1949(昭和24)
名古屋市中区三の丸に名古屋聖霊学園中学校開校  
拳母(豊田市)に聖母保育園開園(豊田聖霊幼稚園の前身)
1951(昭和26)
拳母(豊田)に聖母園診療所開設(~1961)
1952(昭和27)
名古屋聖霊学園に高等学校開校
1954(昭和29)
秋田・聖霊女子短期大学開学
1958(昭和33)
八事聖霊幼稚園開園(~2016)
1965(昭和40)
小金井聖霊幼稚園開園(~2010)
1968(昭和43)
秋田・短期大学移転、高清水修道院開設(~1984)
1970(昭和45)
名古屋聖霊学園、瀬戸に移転、瀬戸修道院開設(~2011)  名古屋聖霊短期大学開学(~2005)
1987(昭和62)
韓国支部設立(2000年に準管区として独立、2012年管区に昇格)
1995(平成7)
名古屋聖霊学園は、南山学園と合併
2007-2008
聖霊会日本宣教100周年を祝う
2014(平成26)
南相馬市に原町枝共同体開設 カリタス南相馬の支援
2017(平成29)
旧八事聖霊幼稚園を改修して聖霊ミッションセンターを開所
初期の聖霊会員はおもに母院オランダのシュタイルとヨーロッパから、その後、アメリカ合衆国、インド、インドネシア、韓国などアジアの国々から、この100年の間に102名の聖霊会会員が日本の地を踏み、日本人会員と共に宣教使命に携わりました。また、この歴史の中で、時代と教会の必要に応えて岐阜、名古屋市石園町、長崎でも一時期支部を開き、使徒職に従事しました。
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