聖霊会について ~Who We Are~
11月28日は聖霊会の共同創立者 福者マリア・ヘレナの祝日です
マザーマリアとはどんな人だったのでしょうか?
1995年5月7日、バチカンの聖ペトロ大聖堂広場で行われた列福式で、聖霊会共同創立者であるマザーマリア・ヘレナ・シュトレンベルクは、教皇ヨハネ・パウロ二世の「使徒的権能によりマリア・ヘレナ・シュトレンベルクを福者に叙し、11月28日をその崇敬の祝日にする。」との荘厳宣言によって、*福者の称号が与えられました。
*福者とは、キリスト教の教えに従って歩んだ信徒の中から、特に聖性に優れ、偉大な愛徳の業に励んだ人または、迫害による殉教によって、その信仰を証しした人などに厳正な列福調査手続きを経て、生前の聖性の卓越性と、死後の代願による奇跡が立証された人に、教会から与えられる栄誉のある称号で、最高位の聖人、聖女に次いで2番目に相当する位です。列福式とは、その人を「福者」の列に加えることを宣言し、公に崇敬することを認める公式行事です。)キリスト教大辞典参照
ヘレナ・シュトレンベルクは、1852年11月28日、ドイツのローレスブロイヒという小さな村に生まれました。父ヨハネは信仰深い人で、農園と旅館兼レストランを経営していました。母マリア・ボンガルドは父の三度目の妻でヘレナはこの夫婦の長女として生まれましたが、上に8人の兄弟がいて、そのうち3人はろうあ者でした。その後父親が亡くなると、母が3人の娘を残して妻に先立たれた男性と再婚し、ヘレナには妹マリアができました。さらに増えた3人の義理の姉妹とも、生涯親しくしていました。こうした複雑な家庭環境から、ヘレナは一家の絆となり、その感受性、人を理解する力、暖かく人を調和させる力が育まれました。
ヘレナは毎日の祈りと定期的な教会通いが当然だった家庭の宗教的な雰囲気の中でキリストを知るようになりました。6歳の頃から教会の児童福祉会から出る冊子を熱心に読み、中国やアフリカの貧しい子供たちへの募金活動に積極的に参加し、外国へ行って福音宣教をしたい、特に中国で貧困のために捨てられる子供たちを救う修道女になりたいと強く憧れていました。20歳になった時、今こそ自分の道を歩む時が来たと思い自分が通うシメラートの教会の司祭に相談しました。当時ドイツは文化闘争の只中で,司祭は追放の危険性のない看護をするフランシスコ会修道院に入るか、他の可能性が出るまで待つかを勧めました。彼女は中国へ行きたかったので待つ方を選びました。
1881年貧しい子供たちに教育の機会を与えている施設の院長から、シュタイルの宣教神学院の住所を渡されました。これが1882年3月のアーノルド・ヤンセンとの最初の出会いへと導いたのです。シュタイルの聖堂で祈った時彼女は自分の召命が達せられる場所に来たと感じました。ここから宣教師が中国に派遣された。自分もいつか…と思ったのです。帰途、外国宣教の厳しさを語ったアーノルドが、ついでのように、台所で働いているみ摂理会がもう一人の手伝いを必要としていて、そこで新しい共同体が作られるかもしれないと語ったことを思い出し、それに応募する決意を固めました。様々な障害を克服して彼女は宣教神学院へ台所の下働きとして入りました。すでに神への奉仕としてそこで働いていたテレジア・シッケとヘレナのためにアーノルドは祈りと黙想、霊的読書、ミサを含む志願者の日程を作り、日中の重労働を加えて、そこでの共同生活が始まりました。
アーノルドは社会情勢や教会、宣教神学院の状況を見ながら、女子の宣教修道会創立を考え続けましたが、決断までには長い年月がかかりました。1884年もう一人の志願者ヘンドリーナが加わり、3人の共同生活が始まりました。2年後この志願者たちに共同体としての家が与えられ、修道会創立に一歩近づいたかに見えました。さらに増えた志願者たちのために、新しい修道院へ移転した1889年12月8日が、正式な聖霊奉侍修道女会の創立記念日とされました。 1892年1月に着衣式が行われ、ヘレナにはマリアという修道名が与えられ1893年に会憲が認可されると正式な修練期が開始されました。これまで忠実に小さい共同体の責任者として創立者の信頼にこたえてきたシスターマリアは、修道院長と修練長の任命を受け、若い修道会の運営、若い入会者の養成のために力を尽くしました。
1881年貧しい子供たちに教育の機会を与えている施設の院長から、シュタイルの宣教神学院の住所を渡されました。これが1882年3月のアーノルド・ヤンセンとの最初の出会いへと導いたのです。シュタイルの聖堂で祈った時彼女は自分の召命が達せられる場所に来たと感じました。ここから宣教師が中国に派遣された。自分もいつか…と思ったのです。帰途、外国宣教の厳しさを語ったアーノルドが、ついでのように、台所で働いているみ摂理会がもう一人の手伝いを必要としていて、そこで新しい共同体が作られるかもしれないと語ったことを思い出し、それに応募する決意を固めました。様々な障害を克服して彼女は宣教神学院へ台所の下働きとして入りました。すでに神への奉仕としてそこで働いていたテレジア・シッケとヘレナのためにアーノルドは祈りと黙想、霊的読書、ミサを含む志願者の日程を作り、日中の重労働を加えて、そこでの共同生活が始まりました。
アーノルドは社会情勢や教会、宣教神学院の状況を見ながら、女子の宣教修道会創立を考え続けましたが、決断までには長い年月がかかりました。1884年もう一人の志願者ヘンドリーナが加わり、3人の共同生活が始まりました。2年後この志願者たちに共同体としての家が与えられ、修道会創立に一歩近づいたかに見えました。さらに増えた志願者たちのために、新しい修道院へ移転した1889年12月8日が、正式な聖霊奉侍修道女会の創立記念日とされました。 1892年1月に着衣式が行われ、ヘレナにはマリアという修道名が与えられ1893年に会憲が認可されると正式な修練期が開始されました。これまで忠実に小さい共同体の責任者として創立者の信頼にこたえてきたシスターマリアは、修道院長と修練長の任命を受け、若い修道会の運営、若い入会者の養成のために力を尽くしました。
創立者はまだ修練期の姉妹たちに、宣教地へ派遣する準備として、外国語、絵画などの学習などのクラスへ入る姉妹の人選をした中に、シスターマリアは入っていませんでした。これを神のみ旨と受け止め、自分はここに留まって若い宣教女を育て、送り出すことに徹しようと決意しました。
最初の会員が誓願を立てた1年後、聖霊会員が初めて宣教地、アルゼンチンへ派遣されました。派遣前の準備、派遣後の心遣いを、母の心をもって果たしました。
1896年創立者は長年温めていた、神言会、聖霊会の宣教を、祈りで支える観想会の設立に動き始めました。姉妹全員に宣教部門に留まるか観想部門に行きたいかを尋ねました。ずっと観想的祈りを求めてきたシスターマリアは、観想部門への希望を出しましたがそれは叶えられませんでした。これは彼女にとって大きな試練でした。葛藤の中にも彼女はこれを神の意思として受け止め生涯を宣教女の養成のために捧げる決意をしました。 それにもかかわらず2年後宣教部門と観想部門の軋轢が大きくなった時、これを治めるのはシスターマリアしかいないと理解していた総長は、彼女に移籍を求めました。これは彼女にとってより大きな試練でした。最終的にそこに神の意志を見て観想部門すなわち永久礼拝会に修練女として移籍しました。かつて自分が育てた礼拝会のリーダーのもとで、シスターマリアヴィルゴとして修練期をはじめましたが、その後まもなく病に伏し、病床で特別許可を得て、1900年1月31日永久礼拝会員としての誓願を立てました。そのわずか3日後、シスターマリアヴィルゴ、(宣教会ではマザーマリア)は神のもとに召されました。
彼女の特徴は聖体のうちにいます主への礼拝と熱い祈りで、これは少女のころから際立っていました。上長の意志は神のみ旨との強い確信も目立っていました。また自分よりも年下、または後輩の上長の意思も尊重しました。共同体の上長として日課や施設設備にも具体的提案を総長である創立者に挙げ、適当でないと判断した規則の変更なども率直に総長に進言しました。
彼女のモットーは栄光は神に、善いことは人に、重荷はわたしに」でした。創立者は彼女に「共同創立者」の称号を与えました。
マリア・ヘレナへの代願による奇跡は1963年4月29日、日本人音楽教師である輝道(てるみち)郁子さんが、金沢聖霊病院の修道院のシスタ―たちの九日間の祈りの後、7回の手術でも治癒しなかったクロン氏病限定性腸炎による痛み、苦しみから解放されて、医師でも説明できない突然の治癒が起こったのです。この奇跡の検証は1991年5月14日ローマで始められ、医師団の委員会は医学的見地からは説明のつかないものだったと宣言しました。