神言会最初の宣教師 聖フライナーデメッツ
紹介ビデオ The Mission of Josef Freinademetz(英語)
神言会 最初の宣教者 聖ヨゼフ・フライナーデメッツ 1月29日
故郷でのヨゼフ
2020-01-29
「福神父」と、中国の人びとから敬愛をもって呼ばれた、神言会最初の宣教師、聖ヨセフ・フライナーデメッツとはどんな方だったのでしょうか。1月29日がこの聖人の祝日です。
ヨセフ・フライナーデメッツは、1852年4月15日、オーストリア領、南チロル、ドロミテの高地のオイエスという小さな村で生まれました。この渓谷の人びとは少数民族のラディン族に属していて、ヨセフもラディン語を話していました。父ジョバン・マッティアと母アンナ・マリアとの間には11人の子どもがいて、ヨセフは4番目でした。家族は小さな農場を持ち、生計を支えていました。日常生活はカトリックの伝統に深く根付いていて、一日は家庭祭壇の前での「お告げの祈り」で始まり、全員で唱える「ロザリオの祈り」で閉じられていました。父は子供たちを毎日村から20分もかかる教会へ連れて行きました。
1872年ヨセフは神学校へ入学し、1875年司祭として叙階されました。ブリクセンは宣教精神に満たされて、世界に開かれた都市であったこと、ヨセフも学校と神学校時代に宣教者との交流を育てた教師に出会っていたこともあり、宣教師としての召命をはっきり感じていました。
神言会初の宣教師、中国に派遣される
2020-01-29
1878年1月、教区報でシュタイルの宣教会(のちの神言会)についての報告を読んだとき、ヨセフは宣教師になる決意を固めました、その年の8月27日ヨセフは創立間もないシュタイルの宣教神学院に入り、1979年には、彼よりも先に神学院で学んでいたヨハン-バプティスタ-アンツァーと共に神言会第一号の宣教師として中国へ派遣されました。香港で初めて中国の土を踏んだのは、4月20日でした。
イタリア人宣教師ピアツォリの指導の下に、ヨセフは西貢(サイクン)で2年間の「宣教師の修練期」を始めました。神学院で学んだ中国語は香港では役に立たず、広東語を一から学びなおさねばなりませんでした。ピアツォリ師に同行した最初の宣教旅行では、蚊、蝿、のみ、しらみに悩まされましたが、「宣教師とは、人々と共に暮らし、生活上のあらゆる不便さを分かち合い、善き訪れを宣言する声になること」と教えられました。そして、ピアツォリ師の指導は「この国の人を愛することを学ぶ」という唯一の科目に集約されていました。
間もなく総会長アーノルド・ヤンセンが折衝をし、神言会に宣教をゆだねられた南山東省へ移動する時が来ました。先に山東省に行っていたアンツァー師と合流し、坡里(パオリ)に本部を置くことにし、そこを拠点に巡回宣教を始めました。山東省南部は、ヨーロッパ人がほとんど訪れたことのない広大な地域で、ヨセフは続けて数週間、まれには数か月をかけて、半盲の中国人信徒と共に村から村へと巡回し、その地域や地区、多くの人々のことを知り、中国人、彼らの考え方、伝統と慣習、性格と気質を学びました。シュタイルから共に派遣されたアンツァー師を常に上に立て、ヨセフは副の座にいました。 1886年ヨセフは終生誓願を宣立しました。この誓願を通して彼は自分の人生を全く、永遠の希望である死の後の生命も、中国の人々と一致させました。
宣教師としての生きざま
2020-01-29
19世紀半ばヨーロッパの植民地政策が最高潮に達したころ、ドイツ帝国の強引なやり方での搾取に、中国人は屈辱を感じ、地方官僚は外国人への憎悪に駆り立てられ、宣教師たちは中国文化と儒教組織を破壊する侵略者と認識され、1887年11月若い二人の神言会宣教師が刺殺されました。1900年義和団の暴動が起きた時、宣教師はより安全な海岸地域に避難するよう命令されました。当時使徒座代理区長代理だったヨセフは、自分の牧する人々を気にかけ、パオリの宣教本部に残って、そこに逃げてきた孤児や信者たちの世話をするつもりでしたが、兄弟会員の反対にあい、説得されて兄弟たちと共に出発したものの、20キロほどで引き返してきました。その後ヨセフは襲ってきた人びとに殴られ、半死半生になりながらも生き延びました。
この暴動も治まって宣教師たちがそれぞれの宣教区に戻った1900年夏、総会長アーノルド・ヤンセンは、これまでアンツァー司教が兼務していた管区長職をヨセフに委ねました。彼は会員に母としての配慮を示し、亡くなるまで真剣にこの任務を果たしました。宣教の経験を通して、カテキスタ(要理教育の指導者)の必要性を確信していたヨセフは、その養成に力を入れ、また一時期神学校の校長をも務めました。彼はまた、地元の中国人司祭たちと信頼関係を保ち、教会上長に差別をなくすよう進言し、神言会にも中国人受け入れを願い出ました。教会上長が最初の中国人司教を任名するまで10年を要し、1946年には神学生として、ヨセフを知っていたトマス・田がピオ12世によって最初の白人でない枢機卿に選ばれただけでした。田枢機卿はヨセフについて「彼の祈る姿はわたしの記憶の中に永遠に焼き付いています。彼は祈りの偉人でした。彼の信心の深さは開かれた者であり、熱情を起こさせました。」と言っていました。
1907年1月28日は、神言会の中国における銀祝の記念日でした。25年前、ヨセフは、アンツァー司教と共にプオリに最初の宣教所を開いたのでした。当時コレラが蔓延し、神言会の宣教者をはじめ、多くの人々が死に追いやられていたので、ヨセフも病人の世話をもしていましたが、自身もそれに感染し、1908年1月28日載家(タイキア)で高熱にうなされながらもイエスのみ心、自身の保護の聖人への祈りを唱えながら息を引き取りました。
宣教者の模範、聖ヨゼフ
2020-01-29
聖ヨセフ・フライナーデメッツの生涯は、理想的で熱心な若い宣教師から、香港と山東省での挫折した宣教師へ、それから再び愛の言葉を話すことを学んだ宣教師への驚くべき回心への発展の物語です。チロルの山岳地帯の息子が1879年4月に香港で下船した時、彼はこれから哀れな異教徒を救い、偶像崇拝や不信仰を根こそぎにすると確信していました。彼は人を救うため、洗礼を授け、悪霊や悪魔と戦うために母国の小教区を離れましたが、しかし誰も彼に興味を示さず、誰も会いたいと思わず、洗礼を願う者はなく、彼のメッセージに興味を示しませんでした。かれらは鼻の高い外国人を見たいと思っただけでした。彼のことを「外国人の悪魔」と呼びました。故国では彼は司祭として尊敬され、栄誉が与えられ、人々に受け入れられていました。しかしここでは、誰もどうして彼がそこにいるのか、関心もないように見えました。それらの日々を振り返って 彼はこう書いています。「来る日も来る日もわたしが見聞きし、体験したことは,度々これまで持っていた確信とはまるで反対でした。」そしてその挫折を、彼が救うために来た中国人のせいにすることもありました。ヨセフは彼の時代の人で、他の宗教について考える余地がありませんでした。宣教師とは、カトリックの信仰のために霊魂をかちとることという彼の目的を達成できないために失望し、挫折したのでした。
彼の個人的な失望、不成功は、彼に何が間違っていたか、自分がどんな宣教方法をとって来たかを考えさせました。中国服を着ることが彼を新しい人にはしなかったことに気づき、何をすべきだったかを理解し始めました。山東省で彼は、香港では欠けていたこと、中国人と、彼らの習慣としきたり、ものの見方、彼らの文化と言語を知ることに努めました。その結果は、彼らを知れば知るほど彼らをますます評価し、尊敬することになり、真に彼らを愛し始めました。もちろんその過程は苦しいものでしたが、こうして彼は偉大な宣教師になりました。この回心によってヨセフは中国人の心を得、彼らは彼を信頼し始め、彼と共にいることを望み、彼は愛の言語を学び、彼の中国人と共に永遠への道を進みました。彼は愛する中国人と永遠まで共にいることを望みました。ヨセフはそれまで以上に神に近づき、当時の兄弟会員たちと中国の全宣教者の模範となりました。山東省に二人の宣教師が到着した時、158人だった信者数は、27年の間に受洗者は20万人、求道者は4万人を超えていました。
1975年ヨセフ・フライナーデメッツは神言会創立者アーノルド・ヤンセンと共に教皇パウロ6世によって福者に挙げられ、2003年教皇ヨハネ・パウロ2世によってアーノルド・ヤンセンと共に聖人の列に加えられました。