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教皇フランシスコ 連続講話「家庭」について バックナンバー

教皇フランシスコの「高齢者」についての講話①より 2015年3月4日

 …医学の進歩により、人々の寿命は延びましたが、社会がいのちに対して「開かれて」いるわけではありません。高齢者の数は増えましたが、彼らを受け入れ、その弱さと尊厳に対してしかるべき敬意と具体的配慮を示せるほど社会は整えられていません。若いときには、老年期は避けるべき病気であるかのように感じ、高齢者を無視します。しかし、自分が年をとり、特に貧しかったり、病気で孤独であったりする場合、社会の不備を身をもって体験することになります。社会は効率性を追求するようプログラムされており、その結果として高齢者は無視されているのです。しかし、高齢者は無視してはならない財産です。
 ベネディクト十六世は、老人ホームを訪れ、次のような率直で預言的な発言をしました。「社会の質、いわば文化の質は、高齢者がどのように扱われ、共同生活の中でどのように位置づけられているかによっても評価できます」(2012年11月12日)。まったくその通りです。高齢者にどう目を向けるかによって、文化に違いが生じます。高齢者に目を向ける文化になっているでしょうか。高齢者の居場所はあるでしょうか。高齢者の知恵を尊重できる文化は、進歩する文化です。高齢者に居場所がなく、問題を起こす要因として彼らを切り捨てる文化は、死の毒をはらんでいます。
すれ違いざまにあいさつを交わす
…利益だけを求める文化は、高齢者を「お荷物」のように感じ、振り払おうとします。こうした文化は、高齢者は何も生み出さないだけでなく、精神的負担だと考えます。結局、その結果として何が起こるでしょう。高齢者が見捨てられます。高齢者が切り捨てられている様子を見るのは実に悲しいことです。それは冷酷なことであり、罪です。誰もこのことを公然と主張していませんが、それが現実です。使い捨て文化に埋没している社会には、何か邪悪なものが含まれています。そして、わたしたちは人を見捨てることに慣れてしまいます。弱さやもろさに対して増大する恐れから逃れようとしているのです。しかしそれにより、わたしたちは高齢者が抱いている、自分がさげすまれ、無視されるのではないかという不安を悪化させています。・・・
「…社会は、『若者だけに役立ち、満喫できる』消費モデルに、高齢者が参加することも、発言することも、かかわることも許しません。社会の中の高齢者は、私たち人間の知恵を守ってきた人々であるはずです。高齢者はわたしたち人間の知恵の宝庫です。愛のないところでは、良心はいかに簡単に眠った状態に陥ってしまうことでしょうか」(ベルゴリオ・ホルヘ・マルコ「Solo l’amore ci puo salvare (愛だけが救うことができる)」, バチカン、2013、p.83)
…教会の伝統には、高齢者に寄り添う文化をつねに後押しする豊かな知恵が含まれています。それは、人生の最終段階を温かく支え、寄り添う文化です。この伝統は聖書に根差しています。シラ書には次のように記されています。「老人たちの話を聞き逃すな。彼らも、その先祖たちから学んだのだ。そうすれば、そこから知識を学び、必要なときに答えることができる」(8・9)。
教会は高齢者に対して不寛容であったり、無関心であったり、軽べつしたりする考え方に従うことはできませんし、そう望むこともありません。わたしたちは、感謝し、受け入れるという共通認識を新たに呼びさまさなければなりません。そうすれば高齢者も自分が共同体の生きた一部分であると感じることができるでしょう。
高齢者はわたしたちよりも前にやって来て、わたしたちと同じ道を歩み、同じ家に住み、価値ある人生を送るために日々、奮闘してきた人々、父親もしくは母親です。わたしたちは、非常に多くのものを彼らから受け取りました。高齢者はのけ者ではありません。わたしたちもやがて、考えていようがなかろうが、必ず年を取ります。高齢者を大切にすることを学ばなければ、わたしたちもそのように扱われるようになるのです。
人に寄り添わない社会、たとえ知らない人に対してであろうと、無償で見返りを求めない気持ちが失われている社会は、ゆがんだ社会です。みことばに従う教会は、そのような堕落に屈することはありません。人に寄り添い、感謝することが不可欠なことだと考えないキリスト教共同体は、心をも失っています。高齢者を敬わないところには、若者の未来もありません。

教皇フランシスコの「息子、娘」についての講話より 2015年2月11日

 母親と父親について考えた後、わたしは今回、息子と娘について、子どもたちについてお話しします。…
子どもが喜ぶことにより、両親の心はおどり、未来が再び開けます。子どもは家庭と社会の喜びです。子どもとは、生殖生物学上の問題でも、自己実現の手段の一つでもありません。ましてや両親の所有物でもありません。違います。子どもはたまものです。分かりますか。子どもは贈り物です。それぞれの子どもが唯一でかけがえのない存在であり、同時にそれぞれのルーツのもとに確かに結びついています。…
 子どもが愛されるのは、その子が美しいからでも、こうだから、ああだからでもありません。違います。その子が子どもだからです。その子が自分と同じように考えているからでも、自分の思いどおりになっているからでもありません。子どもは子どもです。わたしたちが生み出したいのちは、その子のため、その子の幸せのため、家庭、社会そして人類全体の幸せのためのものです。
神が最初にわたしたちを愛してくださるように、子どもたちは生まれる前から愛されています。子どもは、愛されるに値することを何もしなくても、話したり考えたりすることができなくても、まだ生まれる前から愛されています。子どもになるということは、神の愛を知る基本的な条件です。神の愛はこの真の奇跡の究極の源です。あらゆる子どもの魂はか弱いものですが、神はその中にこの愛のしるしをお与えになります。その愛がその子の尊厳の基盤です。どんなことがあっても、何者もその尊厳を脅かすことはできません。

 今日、子どもたちが自分の未来を思い描くのが困難になっているように思われます。以前の講話でも話しましたが、父親の存在が家庭の中で後退しているので、子どもが前に進むことに不安を抱いています。わたしたちは世代間のよい関係を、天の御父から学ぶことができます。御父はわたしたちに自由を与えながらも、決して独りぼっちにはしておかれません。わたしたちが過ちを犯しても、御父は、わたしたちへの愛を減らすことなく、忍耐強く見守り続けます。天の御父は、決してわたしたちへの愛を後退させることはありません。御父はつねに前に進みます。勧めないのはわたしたちを待っていてくださるからです。しかし、後退することは決してありません。御父はご自分の子どもたちが勇気をもって前に進むことを望んでおられます。

 一方、子どもたちは新しい世界を築くことを決して恐れてはなりません。子どもたちが、自分が受け取ったものをよりよくしようとするのは正しいことです。しかし、その際には横柄になったり、傲慢になったりしてはなりません。子どもは宝だと考えなければなりませんし、親はいつも尊敬されるべきです。

…世代間の良好なきずなは、将来を約束し、真の人間の歴史を保障します。両親を敬わない子どもたちのいる社会は、道徳心のない社会です。両親への敬意を失ったら、その子は尊敬する気持ちをなくしてしまいます。そして社会は、生気のない貪欲な若者でいっぱいになってしまいます。一方、子どもを心配の種、重荷、リスクとみなし、子どもの数を増やすことを望まない社会は、生気を失った社会です。
子どもを持たないというのは、自己中心的な選択です。いのちは増えることによって若さを保ち、活力を得ます。より豊かになるのであって、貧弱になるのではありません。子どもたちは家族の責任を担うことを学びます。そして、苦難を分かち合うことによって育ち、たまものに感謝しつつ成長します。兄弟姉妹の間の幸せな体験が、両親に対する敬意と心配りを促します。…
 

2015年 教皇フランシスコ 「家庭」についての連続講話集(カトリック中央協議会)

しばらく何週間かにわたって、教皇フランシスコが2015年の一般謁見で話された『家庭』についての講話を連載していきます。
本来の家庭の姿が変化してきており、子育てがますます難しくなってきている現代社会に向けて、教皇は分かりやすい言葉と事例で家庭の中のそれぞれの役割の大切さを訴えています。
隔週で更新していきます。
 

教皇フランシスコの「高齢者」についての講話②より 2015年3月11日

毎週集まって病人、社会問題、平和を願ってロザリオをささげる高齢者たち
わたしは、昨年、ここサンピエトロ広場で祝われた「高齢者の日」に深く心を動かされました。広場は大勢の人々で埋まりました。わたしは、他の人々に自分自身を捧げた高齢者のかたがたの話を聞いたり、「わたしたちは結婚50周年です」「わたしたちは結婚60周年です」という老夫婦の声に耳を傾けたりしました。こうした声を、飽きっぽい若者に聞かせることが大切です。高齢者の誠実さを伝えることが重要です。その日、非常に大勢の高齢者のかたがたがこの広場に集いました。教会の面から、また市民社会の視点から、高齢者について考え続ける必要があります。福音には、非常に感動的で励みになる人物像があります。たとえばシメオンとアンナの姿です。彼らは、ルカによる福音書の中の、イエスの幼少期に登場します。この二人は確かに高齢者でした。シメオンは「老人」であり、女預言者アンナは84才でした。彼女は自分の歳を隠しませんでした。福音書によると、彼らは信仰にあつく、何年もの間、毎日、神の到来を待ち望んでいました。あの日彼らはイエスに会いたい、イエスのしるしを手にしたい、その源を感じたいと強く望んでいました。彼らはメシアに会う前に自分が死ぬのではないかと、少しあきらめていたのかもしれません。彼らは生涯を通して、長い間待ち望んできました。彼らにとって、主を待ち望み、祈ることほど重要なことはなかったのです。だからこそ、マリアとヨセフが律法の規定に従って神殿を訪れたとき、シメオンとアンナは聖霊の導きのもとに、すぐにやって来たのです(ルカ2・27参照)。老齢という重荷、待ち続けるという負担は、すぐに消え去りました。彼らは御子を認め、新たな使命にむけて新しい力を得ました。その使命とは、神から与えられたこのしるしに感謝し、あかしすることです。シメオンは美しい喜びの歌を即興で歌いました(ルカ2・29-32参照)。このとき、彼は詩人になりました。そしてアンナはイエスを伝える最初の女性となりました。「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」(ルカ2・38)のです。
2018年6月に教皇フランシスコは前教皇ベネディクト16世を訪問された。 (Vatican Media)
 おじいさんやおばあさんの祈り、高齢者の祈りは、教会にとって、大切なたまものです。…その祈りは、人間社会全体、とりわけ忙しすぎる人、手いっぱいの人、気持ちが散漫になっている人にも多くの知恵を注ぎます。彼らのためにも、誰かが歌を歌うべきです。神のしるしを歌い、神のしるしを告げ知らせ、彼らのために祈るのです。教皇ベネディクト十六世に目を向けましょう。彼は、祈り、神のことばを聞くために晩年を費やすと決意しました。それは素晴らしいことです。20世紀に生きた正教会の偉大な信仰者であるオリヴィエ・クレマンは次のように語っています。「祈りのない文明は、高齢者が完全に意味を失った文明です。それは悲惨なことです。わたしたちには祈ってくれる高齢者が、何よりも必要です。老年期はそのためにあるからです。」わたしたちには、祈ってくれる高齢者が必要です。老年期はそのためにあるからです。高齢者の祈りは美しいものです。

 わたしたちは、授かった恵みを主に感謝することができると同時に、感謝を知らない心によって生じる自分の周りの空白を埋めることもできます。さらには、若い世代の希望のために取りなすことも、過去の世代の歴史と犠牲を敬うこともできます。また、名を上げようと野心的な若者に、愛のない生活は不毛な生活だと伝えることもできます。恐れを抱いている若者に、未来への不安を克服することは可能であることを伝えることもできます。さらには、あまりも自己陶酔している若者に、受けるより与えるほうがはるかに幸せであることを教えることもできます。おじいさんとおばあさんは美しい霊的な聖域の中で「合唱」を続けます。そこでは、懇願の祈りと賛美の歌が、人生という場で懸命に働き、あがいている社会を支えているのです。

 最後に、祈りは心を清め続けます。神をあがめ、神に祈ることにより、人の心は怒りや利己主義によってかたくなにならずにすみます。高齢者が自分のあかしの意味を見失い、若者を叱るだけで、いのちの知恵を伝えず、悲観的になることはなんと悲しいことでしょう。一方、信仰と人生の意味を模索している若者を高齢者が力づけることは、なんと素晴らしいことでしょう。それはまさに祖父母の使命であり、高齢者の召命です。

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