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教皇メッセージ バックナンバー

教皇フランシスコ アースデー(Earth Day) のメッセージ: 4月22日

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日(4月22日) は 「第50回アースデイ」 を記念します。これは、わたしたちの「共通の家」を愛し、この家とわたしたち家族の最も弱いメンバーを大切にするための、取り組みを新たにするための機会です。この悲劇的なパンデミックが示しているとおり、皆がともに、最も弱い立場の人々の責任を負うことによってのみ、この地球規模の挑戦に打ち勝つことができるのです。回勅「ラウダート・シ」には、まさにこのような副題がついています。「ともに暮らす家を大切に」。今日は、皆さんと一緒に、「わたしたちの地上の暮らし」に特徴づけられる、この責任について考えてみましょう。わたしたちは、 共通の家を大切にするという意識 のうちに成長しなくてはなりません。 

わたしたちは、地上の物質で作られ、その生活を地の実りによって支えられています。しかし、創世記が思い出させるように、わたしたちは単純に「地上のもの」ではありません。わたしたちは自分のうちに神が吹き入れられた「命の息」(参照:創世記2,4-7)を持っています。 たしたちはこうして、ただ一つの人類家族として共通の家に、他の被造物と一緒に生物の多様性の中に暮らしています。 わたしたちは神の似姿として、御子イエスにおいて表されたわたしたちへの神の愛に倣い、すべての被造物を大切に尊重し、最も弱い人々をはじめ、わたしたちの兄弟姉妹に愛と憐みを育むよう招かれています。イエスは、わたしたちと同じ状況を分かち合い、わたしたちを救うために人となられました。

エゴイズムのために、わたしたちは地球を守り管理する自分たちの責任を忘れてしまいました。「わたしたちの共通の家がずいぶん傷んでいることを知るには、現実を率直に見つめるだけで十分です」(ラウダート・シ61)。わたしたちは、その家を汚し、荒廃させ、わたしたちの生活そのものも危険にさらしました。それゆえ、意識を目覚めさせるために、様々な国際的・地域的な運動が育成されました。これらの取り組みを心から賞賛するとともに わたしたちを支える環境を破壊するならば未来はない、 というあたりまえのことをわたしたちに教えるために、若者たちがこれからも表に出ていく必要をまだ感じます。

わたしたちは、自分たちの家であり庭である地球の、そして自分たちの兄弟の世話を忘れました。わたしたちは、地球に対して、隣人に対して、つまるところ、すべての人のためにはからってくださり、わたしたちが皆と交わりと繁栄のうちに生きることを望まれる、優しい御父、創造主に対して罪を犯しました。では、地球はどう反応するでしょうか。スペイン語でこのような言い方があります。 「神は常に赦される。人はある時は赦し、ある時は赦さない。大地は決して赦さない」。 わたしたちが地球を荒廃させたなら、その答えはひどいものでしょう。

どうしたら、地球と人類の調和ある関係を取り戻すことができるでしょうか。調和ある関係、わたしたちはしばしばそのビジョンを、聖霊が生み出す 調和 に求めます。共通の家の中でも、人間同士の関係、他者や最も貧しい人々との関係、自然との関係などがあります。どうしたらその調和を再び築けるでしょうか。わたしたちの共通の家を新しい見かたで見つめることが必要です。 この家は搾取すべき資源の倉庫ではありません。

わたしたちキリスト教信者にとって、 自然界 は「創造の福音」です。それは、 人間のいのちを形作り、人類を支えるため、様々な被造物とともに世界を造られた、神の創造の力の表れ です。聖書にある創造の物語は、このように締めくくられます。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった」(創世記1,31)。わたしたちが痛めつけた地球からの返答としての自然災害を見て、わたしはこう考えることがあります。「今、主に何を考えておられるかを聞いたなら、すごく良いことは言われないだろう」と。 主の御業を破壊したのはわたしたち なのです。

今日、「アースデイ」を記念するにあたり、わたしたちは、地球への聖なる尊重の念を再発見するように召されています。なぜならそれは わたしたちの家であるだけでなく、また神の家でもある からです。これらは、わたしたちの中に自分たちが「聖なる地の上にいる」という意識を生み出してくれます。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、「神がわたしたちの中に備えられた審美的で観想的な意識を呼び覚ましましょう」(使徒的勧告「ケリーダ・アマゾニア」56)。観想的預言は、わたしたちが特に先住民族から学ぶものです。それは、わたしたちが地球を愛し、尊重しないならば、それを大切にすることはできないということです。彼らは「よく生きる」ための知恵を持っています。それは、うまくやり過ごす、という意味ではなく、大地と調和をもって生きるということです。

同時に、わたしたちは、 具体的な行動で示すエコロジー的な回心 を必要としています。ただ一つの、相互に依存しあう家族として、わたしたちの共通の家を脅威から守るための計画の共有が必要です。「相互依存はわたしたちに、ただ一つの世界を、共通の計画を、考えるよう促します」(ラウダート・シ164)。わたしたちは、共通の家を守るために国際共同体として協力し合うことの重要性を知っています。第15回生物多様性条約締約国会議(開催地:中国・昆明)と、第26回気候変動枠組み条約締約国会議(開催地:英国・グラスゴー)という、この二つの重要な国際会議に向けて準備するすべての関係者を励ましたいと思います。

また、わたしは、国レベルまたは地域レベルの一致した参加の計画を励ましたいと思います。社会のあらゆる立場の人々が集まること、草の根から市民運動が生まれることもよいことです。今日記念する「アースデイ」も、このようにして生まれたものです。 わたしたち一人ひとりに小さな貢献が可能です。「これらの努力で世界を変えることはできないだろうと、考えないでください。こうした行動は、気づくことができなくとも、常に想像以上に実を結び、社会に善を広げます。それは、時には目に見えない形で、常に広がる善をこの地球の中に生むからです」(ラウダート・シ212)。

刷新の時であるこの復活節に、わたしたちの共通の家「地球」の素晴らしい恵みを愛し、尊重するよう努めましょう。そして、人類家族のすべてのメンバーを大切にしましょう。兄弟姉妹としてともに天の御父に祈りましょう。「あなたの息を送り、地の面(おもて)を新たにしてください」(詩編104,30参照

2020年 教皇フランシスコ 復活祭メッセージ

「世界広報の日」教皇メッセージ :「あなたが子孫に語り伝える」人生は物語となる

 

 

 今年のメッセージは、物語をテーマにしたいと思います。道に迷ったままにならないためには、よい物語から真理を吸収する必要があると、わたしは信じているからです。よい物語とは、壊すのではなく築き上げる物語、自分のルーツと、ともに前に進むための力を見いだす助けとなる物語です。さまざまな声や知らせに取り囲まれる喧騒の中でわたしたちに必要なのは、自分自身のことと、周りにあるすべての美しいもののこととを語る、人間らしい物語です。世界とさまざまな出来事にいつくしみのまなざしを向ける物語、わたしたちは生きている織物の一部であることを伝えてくれる物語、わたしたちを互いに結びつけている糸の縒り合わせを明かす物語です。

1. 物語を織る
 人間は物語る存在です。わたしたちは子どものころから、食べ物を欲するのと同じように、物語を欲します。童話、小説、映画、歌、報道など、いずれの形であれ、物語はわたしたちの人生に、そうとは気づかなくても、影響を与えています。なじみのある登場人物や話に基づいて、物事の善悪を判断することもあります。物語はわたしたちに刻まれ、わたしたちの信条と姿勢を形成し、自分は何者であるかを理解して伝えられるよう助けます。

 人間は、自分のもろさを覆うために衣を必要とする唯一の生き物(創世記3・21参照)であるばかりか、自分のいのちを守るために物語を「まとう」ことをも必要とする唯一の生き物でもあります。わたしたちは衣だけでなく、物語も織り上げます。人間の「織りなす(テクセレ〔ラテン語〕)力はまさに、織物(テキスタイル)にも、文章(テキスト)にも及ぶのです。 (...) 日常生活においても見られる(...)勇者が、夢を追い求める中で困難に直面し、勇気を与える力、愛の力に動かされ、悪と戦うという展開になっているのです。物語に熱中することで、わたしたちは人生という挑戦に臨むための勇者の士気を得ることができます。

 人間は物語る存在です。 (...) しかし原初から、わたしたちの物語は危険と隣り合わせにありました。歴史〔物語〕には、悪が蛇のようにはい回っているのです。

2. すべての物語がよいとは限らない
 「それを食べると、神のようになる」(創世記3・5参照)。蛇の誘惑は、ほどけにくい結び目を、歴史の筋書きに生じさせます。「あれを手に入れると、このようになれる、あのようなこともできるようになる……」。これは、いわゆるストーリーテリングを道具として用いる人が、今もささやくことばです。幸せになるためには、獲得し、所有し、消費することを続ける必要があると信じ込ませ、説き伏せる物語がどれほど多くあることでしょう。わたしたちはどれだけおしゃべりやうわさ話に躍起になって、どれほど暴力や虚言を振るっているのか、ほとんど自覚していません。 コミュニケーションという機(はた)は、社会的なつながりや文化の構造を結びつける建設的な物語ではなく、社会を織りなす切れやすい糸をほつれさせ、断ち切ってしまう破壊的で挑発的な物語ばかりを生み出しています。裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語をつむぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです。

 道具として用いられる物語や権力のための物語は長くは続きませんが、よい物語は時空を超えます。いのちをはぐくむものなので、幾世紀を経ても普遍なのです。

 偽造がますます巧妙化し、予想をはるかに超えた域(ディープフェイク)にまで達する現代において、わたしたちには美しく、真実で、よい物語を受け入れ、生み出す知恵が必要です。偽りで悪意のある物語をはねつける勇気が必要です。今日の多くの分裂にあって、それをつなぎ止める糸を見失わないよう助けてくれる物語を再び見いだすためには、忍耐力と識別が必要です。それは、日常の気づかれることのない英雄行為をも含め、わたしたちの真の姿を照らし出す物語です。

続きはカトリック中央協議会のウェブページから

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/04/30/20698/

教皇フランシスコ クリスマスメッセージ
「個人や家族、社会の間に闇があっても、キリストの光の方がずっと強いのです。」

2019年 世界宣教の日 教皇メッセージ

南アフリカでの宣教
2019年「世界宣教の日」教皇メッセージ
「洗礼を受け、派遣される――
世界で宣教するキリストの教会」

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 教皇ベネディクト十五世の使徒的書簡『マキシムム・イルド』(1919年11月30日)公布100周年を記念して、わたしは2019年10月を、宣教活動のための特別な期間とするよう全教会に呼びかけました。ベネディクト十五世の預言者的で先見の明のあるこの書簡は、教会の宣教活動を刷新することと、死んで復活したイエス・キリストの救いを全世界に知らせ、伝えるという使命を福音宣教の視点から見直すことが、今日にあってもいかに重要であるかを認識させてくれます。

 このメッセージのタイトル、「洗礼を受け、派遣される――世界で宣教するキリストの教会」は、10月に行われる福音宣教のための特別月間のテーマと同じです。この特別月間を記念することは、第一に、イエス・キリストへの信仰という、洗礼のたまものとして無償で受けた信仰を貫くことの宣教的な意味をあらためて見いだす助けとなります。わたしたちが神の子となるということは、個人としてではなく、つねに教会としての行いです。父と子と聖霊の三位一体の神との交わりから、他の多くの兄弟姉妹とともに新しいいのちが生まれるのです。この聖なるいのちは売り物ではなく――わたしたちは信仰を強制しません――、与え、伝え、知らせるべき宝です。それこそが宣教の意味するところです。わたしたちは無償でこのたまものを受け、だれ一人のけ者にせずに、無償で分かち合います(マタイ10・8参照)。神は、救いの普遍的秘跡である教会を通して、すべての人が真理を知り、ご自身のいつくしみを受けることによって救われるよう望んでおられます(一テモテ2・4、3・15、第二バチカン公会議公文書『教会憲章』48参照)

 教会は世界中で宣教します。イエス・キリストへの信仰は、すべてのことがらに対する正しい視点を与え、神の目と心で世界を見られるようにします。希望は、わたしたちが真にあずかっている神のいのちの永遠の地平に向けてわたしたちを開きます。秘跡と兄弟愛において前もって味わっている愛は、地の果てまで出向いて行くようわたしたちを駆り立てますミカ5・3、マタイ28・19、使徒言行録1・8、ローマ10・18参照)。地の果てまで出向いて行く教会は、宣教における回心を永続的に行わなければなりません。どれほど多くの聖人と信者が、このように無限に開かれることと、このようにいつくしみをもって出向いて行くことは、愛によって、さらにはたまものといけにえと無償性という愛の本質的な論理によって駆り立てられることを通して実現可能となることをあかしし、示してきたことでしょう(二コリント5・14-21参照)神のことを説く、神の人になってください(使徒的書簡『マキシムム・イルド』参照)

 これは、わたしたちに密接にかかわる命令です。わたしはつねに宣教者です。あなたはつねに宣教者です。洗礼を受けた人はだれもが宣教者です。愛し合う人はじっとしていません。自分の殻から出て、魅了されたり魅了したりし、相手に自分自身をささげ、いのちを生み出す結びつきを織り上げます。神の愛にとって、無用な人、取るに足らない人などいません。わたしたちは神の愛の実りなのですから、一人ひとりがこの世における宣教者です。たとえ自分の父親や母親が嘘や憎しみや不誠実な行いによって愛を裏切ったとしても、神がいのちのたまものを与えることをおやめになることは決してありません。いかなるときも、ご自分の子ども一人ひとりを、ご自身の聖なる永遠のいのちへと向かう者にしてくださいます(エフェソ1・3-6参照)

 そのいのちは、洗礼によって与えられます。洗礼は、罪と死に打ち勝ったイエス・キリストへの信仰というたまものを与え、神の像と似姿にわたしたちを新たに生まれさせ、わたしたちを教会というキリストのからだの一部にします。ですから洗礼は、救いのために真に欠かせないものです。わたしたちはいつどこにいても、御父の家では、孤児でもよそ者でも奴隷でもなく息子や娘であることを、洗礼は保証するからです。キリスト者における秘跡的な現実――それは聖体のうちに成就します――とは、回心と救いを待ち望んでいるあらゆる人にとっての召命であり目的地です。洗礼とは、御子のうちに人間をご自分の子どもにするという、神がたまものとして与えてくださる約束の実現にほかなりません。わたしたちは自分の肉親の子どもですが、本来の父と真の母は洗礼において与えられます。教会を母としてもたない者は、神を父としてもつことができません(聖チプリアノ『カトリック教会の一致について』6参照)

 このように、わたしたちの宣教は神の父性と教会の母性に根ざしています。なぜなら洗礼には、イエスが過越にあたって示した派遣の命令が本質的に備わっているからです。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもこの世の和解のためにあなたがたを聖霊で満たし遣わすと、イエスは言われました(ヨハネ20・19-23、マタイ28・16-20参照)キリスト者とは、このように派遣される人です。それは、受胎から自然死に至るまで、あらゆる人のいのちに本質的に備わる価値と人間の尊厳を確信できるよう、すべての人に神の養子としての召命を伝えるということです。わたしたちの歴史における、父としての神の働きかけが文化としてあからさまに拒否され、世俗主義がはびこることは、一人ひとりのいのちを互いに尊重し合うこととして表れる、あらゆる普遍的な真の兄弟愛に対する妨げです。イエス・キリストという神がおられなければ、あらゆる相違は恐ろしい脅威となり、兄弟愛に基づく歓待も、人類の実り豊かな一致も実現できなくなります。

 イエス・キリストのうちに神から与えられる救いの目的の普遍性に基づいて、ベネディクト十五世は、国家主義や自民族中心主義から生じるあらゆる閉鎖性を乗り越え、植民地支配、また経済や軍事における利益と、福音の告知とのあらゆる混同を克服するよう呼びかけました。そして、その使徒的書簡『マキシムム・イルド』において、教会の宣教の神聖な普遍性は、自国や自民族の中だけのものだという考えを捨てるよう求めていると記しました。イエス・キリストによる新たな救いへと文化と共同体を開け放つには、民族や教会が陥っている内向性をすべて克服する必要があります。今日でも教会は、家、家族、故郷、母国語圏、地方教会から出るようにとの呼びかけに、洗礼の恵みによって、進んでこたえる人を求め続けています。そうした人々は、まだイエス・キリストの秘跡とキリストの聖なる教会によって変えられていない世界の人々のもとに派遣されます。神のことばを告げ、福音をあかしし、聖霊のいのちをたたえながら、彼らは回心を呼びかけ、洗礼を授けます。そして一人ひとりの自由を尊重し、派遣された先の人々の文化と宗教と対話しながら、キリスト者の救いを伝えます。つねに教会が必要としている「諸国民への宣教(missio ad gentes)」は、すべてのキリスト者の回心という永続的なプロセスに根底から寄与しています。イエスの過越を信じること、洗礼を授ける教会として派遣されること、地理的、文化的に自我や家族から離れること、罪のゆるしと、個人的、社会的な悪からの解放を求めること。これらすべては、地の果てまで出向く宣教を要求します。(後略)

2019年 世界広報の日 ~教皇メッセージ~


「ソーシャル・ネットワーク・コミュニティから人間共同体へ」
 
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
 

 インターネットが用いられるようになった当初から、教会はつねに、 人と人との出会いと、 あらゆる人の間の連帯のために役立つその活用を促進してきました。 このメッセージを通してわたしが皆さんに再度お願いしたいことは、 わたしたちが互いにかかわり合う存在であることの根拠と重要性についてよく考え、 現代のコミュニケーションが広範な問題を抱える中で、 孤独でいたくないという人間の思いに、 改めて目を向けることです。

 今日のメディア環境は、 日常生活の領域と区別できないほど広がっています。 ネットワークは現代の資源です。 それは、過去には考えも及ばなかった、 知識とかかわり合いの源です。 しかし多くの専門家が明らかにしているように、 コンテンツの作成、 流布、 活用のプロセスにテクノロジーがもたらした著しい変化には、 世界規模での正確な情報の検索や共有を脅かすリスクも伴います。 インターネットが知識にアクセスする途方もない可能性を示すのであれば、 それが信頼喪失を頻繁に招くことになる、 事実や人間関係に関する偽情報や、 ある目的に基づく意図的な曲解にもっともさらされる場の一つであることも確かです。

 ソーシャル・ネットワークは、 一方ではわたしたちがより密接に結びつき、 互いを認め、 助け合うために役立っていますが、 他方では政治的、 経済的な利益のために、 個人とその権利を尊重しない個人情報の不正操作に利用されていることも認識すべきです。 統計によると若者の4人に1がネット上のいじめに巻き込まれています

 こうした複雑な状況の中で、 インターネットの肯定的な可能性を再発見するためには、 当初その根底にあった、 ネット(網)というものの隠喩についての考察へと立ち戻ることが有益でしょう。 ネットのイメージは、 中心も階層的構造も縦型組織もなくとも安定している、多数の線と交点を思い起こさせます。 ネットワークは、すべての構成要素が共にかかわることによって機能します。

 

 人類学的な観点に立ち戻ると、ネットワークの隠喩は共同体というもう一つの重要なイメージを思い起こさせます。 共同体は、 団結して連帯するほど、 また信頼によって生き生きとし、 共通の目的を追い求めるほど、 いっそう強められます。 連帯のネットワークとしての共同体は、 責任をもって発言することに基づく相互の傾聴と対話を必要とします。

 だれの目にも明らかなように、 現状においてはソーシャル・ネットワーク・コミュニティは必ずしも共同体と同義ではありません。 このコミュニティは、 最良の状態にあるならば団結と連帯のあかしとなりますが、 大抵は同じ関心や話題という弱いきずなによって認識し合う、 個人の集合体にすぎません。 しかもソーシャルウェブ上のアイデンティティは、 ほとんどの場合他者や部外者との対比に基づいています。 つまり、 結びつけることではなく、 分け隔てることによって自己を定義しており、 それにより疑いを生じさせ、 あらゆる種類の偏見(民族、性、宗教などによる)を噴出させているのです。 こうした傾向により、 異質な存在を排除するグループが勢いを増し、 歯止めの利かない個人主義がデジタル環境内にも広がり、 憎しみの連鎖に至ることさえあります。 このように世界への窓(ウインドウ)となるべきものが、 自己陶酔を誇示するショーウインドウになっています。

 ネットワークは他者との出会いを促す機会となりますが、 わなにはめるくもの巣のように、 わたしたちをさらに孤立させることもあります。 若者はソーシャルウェブが自分の対人関係を完全に満たしてくれるという錯覚にとりわけ陥りやすく、 彼らが、 社会から完全に引き離される危険のある「ひきこもり」になるという深刻な事態まで起きています。 こうした劇的な動向は 、かかわり合いから成る社会構造に深刻な断絶、 無視できない亀裂があることを物語っています。

(中略)

 相互理解を深めるには、 接続回数を増やすだけでは不十分であることは明らかです。 それではオンラインのネットワーク上でも互いに担うべき責任への自覚に基づく、 共同体の一員としての真のアイデンティティを見いだすにはどうしたらよいでしょうか。

 その答えは、からだとその部分という第三の隠喩から引き出すことができます。 それは聖パウロが人間の互恵関係を表現するために用いたことばであり、 各部分が一つとなって有機体を形作っていることに基づいています。 「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いにからだの一部なのです」(エフェソ4・25)。 互いにからだの一部であることは深遠な動機であり、 使徒パウロはその動機のもとにうそを退け、 真理を語るよう呼びかけています。 真理を守る責務は、 交わりの相互関係を否定しないという要求から生じます。 真理はまさに、 交わりにおいて明らかにされます。 それに引きかえ、うそは 自分が一つのからだの一部であることを利己的に拒絶することです。 自分自身を他者に差し出すことを拒むことにより、 自分自身を見いだす唯一の道を見失っているのです。

 からだとその部分の隠喩は、 交わりと他者性に根差す自らのアイデンティティについて省察するよう導きます。 キリスト者としてわたしたちは皆、 自分がキリストを頭とするからだの一部であることを自覚しています。 それによってわたしたちは、 競争相手になりうる存在として他者をとらえるのではなく、 敵であっても人として考えられるようになります。 自分自身のことを明らかにするのに、 敵はもはや必要ありません。 すべてを包み込むまなざしをキリストから学んだわたしたちは、 かかわりをもち、 親しくなるために欠かせないもの、 その条件として、 他者性を新たな視点でとらえることができるからです。

 人々の間で理解し合い、コミュニケーションをとるこの能力は、 神のペルソナの愛の交わりに根ざしています。 神は独りでおられるかたではなく、 交わるかたです。 神は愛です。 ですからコミュニケーションが成り立ちます。 愛とは絶えず伝えるものですから、 神は人と出会うためにご自分を伝えてくださいます。 わたしたちと話を交わし、 わたしたちに伝えるために、 神は人間のことばにご自身を当てはめ、 歴史を通して人類と比類のない真の対話をしておられるのです(第二バチカン公会議公文書『神の啓示に関する教義憲章』2参照)

(中略) 

 ソーシャルウェブの活用は相手の肉体、 心、 目、 視線、 息を通してなされる生身の本人との出会いを補完するものであることを、 からだとその部分のたとえは思い起こさせてくれます。 そうした出会いの伸展と期待のために用いられるなら、 ネットは本来の姿を失わずに、 交わりに資するものであり続けます。 家族が互いの結びつきを強め、 食卓を囲んで見つめ合うために用いられるならば、 ネットは一つの資源です。 教会共同体がともに感謝の祭儀をささげるためにネットを通してその活動を調整し合うのであれば、 それは一つの資源です。 自分から物理的に離れたところで起きた素晴らしい、 もしくは苦しい出来事や体験に近づく機会となるなら、 また、 ともに祈り、 自分たちを結びつけるものを再発見することにともに善を見いだす機会となるなら、 ネットは一つの資源です。

 ですからわたしたちは、 診断から治療へと移行することができます。 対話、 出会い、 笑顔、 触れ合い…、 そうしたことへの道を開く、 これこそがわたしたちが求めるネットワークです。 わなにかけるためではなく 解放するため、 自由な人々の交わりを守るためのネットワークです。 教会そのものも、 聖体の交わりによって織りなされるネットワークです。 教会の一致は「いいね!」にではなく、 真実に、 各自がキリストのからだと一つになり他者を受け入れることを表す「アーメン」に基づいているのです。

バチカンより
2019年1月24日
フランシスコ

2019年世界召命祈願日 教皇フランシスコのメッセージ

第56回「世界召命祈願の日」教皇メッセージ
「神との約束のために危険を顧みない勇気」

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

(略)わたしはこの「世界召命祈願の日」にあたり、主の呼びかけがどのようにわたしたちを約束の担い手にするのか、そして、主とともに主のために危険を顧みない勇気をいかに求めているかを、パナマで若者と分かち合ったことを振り返ることによって考えたいと思います。ガリラヤ湖で最初の弟子たちが召し出された場面を描く福音箇所(マルコ1・16-20)を、皆さんと一緒に考えながら、この二つの要素―約束と危険―に少し焦点を当ててみましょう。

 二組の兄弟、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは、漁師として日々の仕事に従事していました。厳しい労働の中で、彼らは自然の法則を学びましたが、逆風が吹いたり、舟が波にもまれたりしたときには、それに挑まなければなりませんでした。大漁によって重労働が報われる日もあれば、一晩かけても網を満たせず、疲労と失望のうちに岸に戻る日もありました。

 これは、ごく普通の人生の姿です。その中でわたしたちは皆、心にある願いをかなえるために努力し、豊かな実りが見込める活動に従事し、幸せへの渇きをいやすことのできる正しい航路を探しながら、可能性に満ちた「海」を進みます。大漁のときもありますが、そうでないときには、波に揺られる舟のかじとりに勇気をもって身構えたり、網に何もかからないことに対するいらだちを抑えたりしなければなりません。

 あらゆる召し出しの記述と同様、この出来事にも出会いがあります。イエスは歩いておられるときに漁師をご覧になり、彼らに近寄って……。このことは、結婚生活をともに歩もうと決めた相手に対しても、あるいは奉献生活に魅力を感じたときにも起こることです。わたしたちは出会いに驚き、その瞬間、自分の人生が喜びに満たされるという約束を予感したのです。このように、その日イエスはガリラヤ湖畔を歩いておられ、漁師たちに近寄り、「日常を繰り返すばかりの麻痺状態」(第22回「奉献生活の日」説教、2018年2月2日)を打ち破ってくださいました。そしてすぐさま、彼らに約束してくださいました。「人間をとる漁師にしよう」(マルコ1・17)

 主の召し出しは、わたしたちの自由に対する神の干渉ではありません。それは「檻(かせ)」でも、背負わされる重荷でもありません。それどころか、神がわたしたちに会いに来られ、わたしたちの参加を望んでおられる偉大な計画へと招いてくださる、愛に満ちた導きです。神はより広大な海と有り余るほどの漁獲という展望を示してくださるのです。

 神はまさに、わたしたちの人生が疑いようのないことだけにとらわれたり、日々の習慣の中で惰性(だせい)に陥ったり、人生に意味を与えうる選択を前にして現状に押し流されたりしないよう求めておられます。情熱を傾けるに値するものはしょせん、何もないと考え、人生の新たな航路を探すことへの不安を打ち消しながら日々を生きることを、主は望んでおられません。もし主が「奇跡的な大漁」を幾度か体験させてくださるとしたら、それは、わたしたち一人ひとりは―さまざまなかたちで―なにか偉大なことへと招かれているのであって、無意味で心を麻痺させる網に人生をからめ捕られてはならないのだということに気づいてほしいと願っておられるからです。要するに召命とは、網をもって岸辺にとどまるのではなく、イエスがわたしたちのため、わたしたちの幸せのため、わたしたちのそばにいる人の善のために考えてくださった道を、イエスに従って歩むようにとの招きなのです。

 もちろん、この約束を抱き続けるには、危険を顧みずに選択する勇気が必要です。最初の弟子たちは、もっと大きな夢に加わるよう主に招かれていると感じ、「すぐに網を捨てて従」(マルコ1・18)いました。主の呼びかけにこたえるためには、全身全霊でかかわり、危険を顧みずに新たな課題に立ち向かう必要があることを、この箇所は伝えています。わたしたちは、自分の小さな舟に自らを縛りつけているもの、最終的な決断への妨害となるものをすべて捨てなければなりません。求められているのは、神がわたしたちの人生に描いておられる計画を見いだすよう強く促す大胆さです。つまり、召命という広大な海の前では、安全な舟の上で自分の網を直し続けるのではなく、主の約束を信頼することこそが求められるのです。

 わたしは何よりもまず、キリスト者として生きることへの招きについて考えます。それは、洗礼によって皆が受ける招きであり、わたしたちのいのちは偶然の産物ではなく、教会という大家族の中に集う、主に愛されている子というたまものであることを思い起こさせてくれます。キリスト者はまさしく教会共同体の中に生まれ、とりわけ典礼によってはぐくまれるのです。典礼は、神のことばに耳を傾け、秘跡の恵みにあずかるようわたしたちを導きます。この共同体において、わたしたちは幼いころから祈りと兄弟姉妹間の分かち合いのすべを学びます。わたしたちを新しいいのちに生まれさせ、キリストのもとへと導いてくれるのですから、教会はまさにわたしたちの母です。ですから、たとえその顔に弱さと罪というしわを見たとしても、母なる教会を愛さなければなりません。そして教会がより美しく輝き、この世における神の愛のあかしとなるよう力を尽くさなければならないのです。

 またキリスト者の生き方は、社会におけるみ国の発展に貢献しつつ、自分たちの航海を正しい方向に向ける選択として表れます。わたしは、キリストのもとに結婚して家庭を築くという選択について考えると同時に、労働や専門職の領域、慈善活動や連帯の分野における取り組み、社会的、政治的責任などと結びついた、他の召命についても考えます。これらの召命は、わたしたちを善と愛と正義の約束の担い手にします。それは自分のためだけでなく、勇気あるキリスト者と神の国の真のあかし人を必要としている、わたしたちの地域の社会と文化に尽くすものでもあるのです。

 主との出会いの中で、奉献生活や司祭職への招きに心惹かれる人もいるでしょう。完全に自分自身をささげ、福音と兄弟姉妹に忠実に奉仕するよう努めることを通して、教会という舟の中で「人間をとる漁師」になるようにとの招きを感じることは、感激と同時に不安を覚えさせることです。この選択には、主のわざの協力者となるために、思い切ってすべてを捨てて主に従い、自分自身を完全に主にささげることが求められます。心の中にさまざまな抵抗が生じ、その選択を妨げるでしょう。また、きわめて世俗的で、神と福音の入る余地がないように思われる状況では、落胆し、「希望の疲弊(ひへい)」に陥るでしょう(「司祭、奉献生活者、信徒活動団体とのミサでの説教」パナマ、2019年1月26日)

 それでも、主のために危険を顧みないで生きることほど、大きな喜びはありません。とくに若者の皆さんにお願いします。主の呼びかけに対して耳をふさがないでください。主がそのように呼びかけたら、おじけづかずに、神を信頼してください。主から示された高い頂きの前で、身動きできないほどの恐怖心に支配されないでください。主は網や舟を捨ててご自分に従う人に、心を満たし、人生を活気づける、新しいいのちの喜びを約束してくださいます。どうかこのことを忘れないでください。

(中略) ワールドユースデー・パナマ大会で何度もしてきたように、マリアを見つめましょう。この少女の生涯においても、召命には約束と危険が伴いました。その使命は容易なものではありませんでしたが、マリアは恐れに屈しませんでした。マリアの「はい」は、「危険を顧みずに自らかかわる人、自分が約束の担い手であるという確信以外には何も保障がなくてもすべてをかけようとする人の『はい』です。皆さん一人ひとりにお聞きします。自分が約束の担い手だと感じていますか。どんな約束を心に抱き、それにこたえようとしていますか。マリアが困難な使命を担っていたことは疑いようもありませんが、その難しさのゆえに『いいえ』と答えることはありませんでした。もちろん戸惑ったでしょうが、それは、前もってすべてが明らかにされ、保証されていないと身動きがとれなくなる臆病さから生じる戸惑いと同じものではなかったでしょう」(「若者との前晩の祈り」パナマ、2019年1月26日)。以下省略

 バチカンより

2019年1月31日
フランシスコ

 

2019年 復活祭 教皇フランシスコの祝福とメッセージ

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、復活祭おめでとうございます。

今日、教会は、最初の弟子たちが告げた言葉を新たにします。「イエスは復活されました!」そして、「アレルヤ…アレルヤ!」と神の賛美への招きが、 口から口へ、心から心へと伝わって行きます。 教会と全人類の永遠の若さである、 主の復活の朝を迎え、 わたしは皆さん一人ひとりに、 最近発表された、 特に若者に向けた「使徒的勧告」の冒頭の言葉をおくりたいと思います。

「キリストは生きておられます。 キリストはわたしたちの希望であり、 この世界の最も美しい若さです。 キリストが触れるすべてのものは、 若返り、 新たにされ、 いのちで満たされます。 それゆえに、 一人ひとりの若者、キ リスト者に、 わたしは最初にこう言いたいのです。 キリストは生きておられ、 あなたが生きることを望まれると! キリストはあなたの中に、 あなたと共におられ、 決して離れることはありません。 たとえ、 あなたが離れていっても、 あなたのそばには復活したキリストが、 新たにやり直すために、 あなたを呼び、 あなたを待っておられます。 あなたが悲しみや、恨み、恐れ、疑い、 失敗などのために、 年老いたように感じても、 キリストはあなたに力と希望を再び与えられるのです」(「クリストゥス・ヴィヴィト」1-2)。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、このメッセージは、 同時に皆さんすべてと世界に向けられています。 キリストの復活は、すべての人の新しい人生の基礎です。 なぜなら、 真の刷新は、 常に心から、 意識から始まるからです。 またキリストの復活は、 罪と死の隷属から解放された、 新しい世界の始まりでもあります。 ようやく世界に神の王国、 愛と平和と兄弟愛の王国が開けたのです。

キリストは生きておられ、 わたしたちと一緒に留まります。 キリストは復活された御顔の光を見せられ、 試練や、 苦しみ、 悲嘆の中にある人々を見捨てることはありません。 生きておられるキリストが、 愛するシリアの人々の希望となりますように。 長引く紛争の犠牲者であるシリアの人たちの状況に対し、 わたしたちは諦めや無関心にさえ陥る危険があります。 これに対して、 今こそ自由と正義と平和への渇望に応える、 政治的解決への努力を新たにすべきです。 人道危機に立ち向かい、 レバノンやヨルダンをはじめとする近隣国に逃れた、 避難民の安全な帰還を促さなければなりません。

主の復活がわたしたちの眼差しを、 絶え間ない分裂と緊張に引き裂かれた中東に注がせますように。 同地域のキリスト者たちが、 深い忍耐をもって主の復活と、 死に対するいのちの勝利を証しすることができますように。 イエメンの飢えと戦争に苦しむ人々、 特に子どもたちに思いをはせます。 主の復活の光が、 イスラエルとパレスチナをはじめとする 中東のすべての治世者と国民を照らし、 多くの苦しみを和らげ、 平和で安定した未来の構築を励ましますように。

リビアの流血の武力闘争が停止されますように。 同国ではここ数週間、 無防備な人々が再び犠牲になり、 多くの家族が避難せざるを得ない状況です。 当事者双方に、 暴力ではなく対話を選び、 十年近くにわたる紛争と政治的不安定の傷を再び開くことがないよう呼びかけたいと思います。

生きておられるキリストが、 ご自身の平和を愛するアフリカ大陸全土に与えてくださいますように。 ブルキナファソ、 マリ、ニジェール、 ナイジェリア、 カメルーンなどの国々では、 いまだ社会的緊張や紛争、 暴力的原理主義が、 治安の不安定と破壊、 死をもたらしています。 わたしの思いはスーダンにも向かいます。 政治不安の中にある同国ですべての嘆願が声を持ち、長く切望される同国の自由と発展と幸福のために、 皆が働くことができるよう願います。

復活の主が、 数日前バチカンで黙想を行った南スーダンの政治・宗教指導者らの努力を見守ってくださいますように。 政治・社会・宗教界のすべての人々が共通善と国内の和解のために積極的に取り組み、 同国の歴史に新たなページを開くことができますように。

この復活祭において現在も続く闘争に苦しむウクライナ東部の人々が、 慰めを得ることができますように。主が人道支援と恒久平和への道を励ましてくださいますように。

復活祭の喜びが困難な政治・経済状況の影響を受けているアメリカ大陸の人々の心を満たしますように。 特にベネズエラの人々を思います。 同国では、 長引き深刻化する危機のために、 多くの人が尊厳ある安全な生活を営むための最低限の条件にさえ事欠いています。 主が政治責任者たちに社会的不正、 悪用、 暴力を停止し、 分裂を回復し、 国民に必要な援助を与えるための具体的なステップを踏む力を与えてくださいますように。

復活の主が、 ニカラグアで行われているすべての国民のための一刻も早い平和的解決と和平への努力を照らしてくださいますように。

いのちの主が、今日の多くの苦しみを前に冷たく無関心なわたしたちの姿をご覧になることがありませんように。 わたしたちを壁でなく、 橋を築く者としてください。 ご自身の平和を与えられる主よ、 わたしたちの町はもとより、 紛争地において武器の響きを止めてください。 特に経済的により発展した国々において武装への歩み、 武力の拡大を止める努力を国の指導者たちに促してください。

墓の扉を開け放った復活の主よ、 わたしたちの心を助けを必要とする人、 弱い立場の人、 貧しい人、 仕事のない人、 疎外された人、 パンや身を寄せる場所を求め、 尊厳を認めてもらうことを願って、 わたしたちの扉をたたく人々に向けて開いてください。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、キリストは生きておられます! キリストはわたしたち一人ひとりのため、 そして全世界のための希望と若さです。 キリストにわたしたちを新たにしていただきましょう。 主のご復活、 おめでとうございます!

VATICAN NEWS より抜粋

https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2019-04/pasqua-urbi-et-orbi-20190421.html

 

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