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創立者と共同創立者 ~Founders~

神言会 最初の宣教者 聖ヨゼフ・フライナーデメッツ 1月29日

宣教師としての生きざま

2020-01-29
 19世紀半ばヨーロッパの植民地政策が最高潮に達したころ、ドイツ帝国の強引なやり方での搾取に、中国人は屈辱を感じ、地方官僚は外国人への憎悪に駆り立てられ、宣教師たちは中国文化と儒教組織を破壊する侵略者と認識され、1887年11月若い二人の神言会宣教師が刺殺されました。1900年義和団の暴動が起きた時、宣教師はより安全な海岸地域に避難するよう命令されました。当時使徒座代理区長代理だったヨセフは、自分の牧する人々を気にかけ、パオリの宣教本部に残って、そこに逃げてきた孤児や信者たちの世話をするつもりでしたが、兄弟会員の反対にあい、説得されて兄弟たちと共に出発したものの、20キロほどで引き返してきました。その後ヨセフは襲ってきた人びとに殴られ、半死半生になりながらも生き延びました。
 この暴動も治まって宣教師たちがそれぞれの宣教区に戻った1900年夏、総会長アーノルド・ヤンセンは、これまでアンツァー司教が兼務していた管区長職をヨセフに委ねました。彼は会員に母としての配慮を示し、亡くなるまで真剣にこの任務を果たしました。宣教の経験を通して、カテキスタ(要理教育の指導者)の必要性を確信していたヨセフは、その養成に力を入れ、また一時期神学校の校長をも務めました。彼はまた、地元の中国人司祭たちと信頼関係を保ち、教会上長に差別をなくすよう進言し、神言会にも中国人受け入れを願い出ました。教会上長が最初の中国人司教を任名するまで10年を要し、1946年には神学生として、ヨセフを知っていたトマス・田がピオ12世によって最初の白人でない枢機卿に選ばれただけでした。田枢機卿はヨセフについて「彼の祈る姿はわたしの記憶の中に永遠に焼き付いています。彼は祈りの偉人でした。彼の信心の深さは開かれた者であり、熱情を起こさせました。」と言っていました。
 1907年1月28日は、神言会の中国における銀祝の記念日でした。25年前、ヨセフは、アンツァー司教と共にプオリに最初の宣教所を開いたのでした。当時コレラが蔓延し、神言会の宣教者をはじめ、多くの人々が死に追いやられていたので、ヨセフも病人の世話をもしていましたが、自身もそれに感染し、1908年1月28日載家(タイキア)で高熱にうなされながらもイエスのみ心、自身の保護の聖人への祈りを唱えながら息を引き取りました。
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