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創立者と共同創立者 ~Founders~

聖霊会の創立者と共同創立者

「聖霊の恵みの力の中ではすべてが可能である」

創立者聖アーノルド・ヤンセン
アーノルド・ヤンセン Arnold Jannsen神父、彼は単純な人間でした。彼の心はただ一つの目的「神のみ旨」のために向かっていました。彼はドイツ、ミュンスター司教区のゴッホという小さな町に生まれ、1861年24歳のときに司祭に叙階されました。彼の責任感をもって働く確固たる人格と、三位一体の神に深く根ざした信仰によって、その後12年間教鞭をとるかたわら、キリスト信徒一致のためにいかなる苦労も旅行もいとわず、大きな熱心をもって信徒の中に「祈祷の使徒会」を広めようと努力しました。このような祈りと働きをとおして次第に海外への宣教に深い関心を抱くようになりました。
最初の聖ミカエル宣教神学院
19世紀後半は混乱した時代であり、ヨーロッパの国家主義、帝国主義、植民地主義の絶頂期でした。1871年、ドイツのカトリック教会はビスマルクの新ドイツ帝国の文化闘争に巻き込まれました。新しい除外法(Exclusion laws)は継続的にそして徹底的に司祭、修道者、カトリック教会の活動を縮小させていったのでした。そういった政治的悪条件にあり、人的・物的資源もとぼしい中で1875年、神がお望みになるならできるとの深い確信のうちに、国境を越えてオランダのシュタイルにドイツでははじめての布教神学院、「神言会」を創設しました。最初から何もかも不足していたにもかかわらず、彼は仲間の者と共に質素な生活に耐えながら外国宣教のために日夜祈りと犠牲を重ねていくのでした。
共同創立者 福者マザーマリアと  福者マザーヨゼファ
そののち、宣教活動は宣教修道女の援助がなければ非常に困難であるし、自分の会と連携した会の修道女とともに働くならば、他の者と働くよりも一層の効果と一致団結を得られると考えた彼は1889年、ヘレナ・シュトレンベルク Helena Stollenwerk(のちのシスターマリア)とヘンドリーナ・シュテンマンス Hendrina Stenmanns(のちのシスターヨゼファ)の協力を得て本会を創立しました。あらゆる宣教の仕事が本質的には聖霊のみ業であり、啓示であるとの創立者の確信により、本会は聖霊に捧げられ、「聖霊奉侍布教修道女会」と名づけられました。
私たち宣教会のために、格子の奥で祈りと働きを捧げる永久礼拝会のシスター
 アーノルド・ヤンセンにとって、祈りの支えのない宣教活動は無意味でした。そこで彼は本会創立の7年後の1896年、「永久礼拝の聖霊奉侍修道女会」を創立し、たえまない礼拝によって神言会と聖霊会の宣教活動の上に神の祝福を願う務めを与えました。
 このシスターたちはその聖服の色からピンクシスターと呼ばれ、私たちはブルーシスターと呼ばれています。ピンクシスターたちは格子の中で、沈黙のうちに祈りと働きの奉献生活を送ります。
聖アーノルドの石棺
アーノルド・ヤンセン神父は三つの国際的修道会の創立者として1909年1月15日、静かにこの世を去りました。彼は布教神学院を設立しようとしていた当初、彼を知っているほとんどの人から、しかも仲間からさえも、そのような大事業のためには不適当と思われていました。けれども多くの試練や困難にもかかわらず、神のおん助けを信頼しながら母なる教会に対する愛に燃えつくされました。1975年列福され、2003年列聖の恵みをいただきました。シスターマリアは1995年に、シスターヨゼファは2008年に列福の恵みをいただきました。

聖霊会 共同創立者 福者ヨゼファ・ヘンドリーナ・シュテンマンス 5月20日

喜びと 人々への配慮にひいでたマザーヨゼファ

2020-05-16
注目
イッスムにある マザーヨゼファの生家
 2008年6月29日、聖霊会の母院のあるオランダ、シュタイルの属する町、テーゲレンで行われた「列福式」において、マザーヨゼファは「貧しい人と病者への奉仕と、多くの宣教修道女の養成に生涯を捧げた尊者」と宣言されました。
 彼女は1852年5月28日、ドイツのライン川下流地方のイッスムという小村で生まれました。神のこと、聖人と守護の天使の話を聞く時が一番幸せという子どもでした。一方で、母を手伝って家事をこなしたり、母が自分のために焼いてくれた小さなロールパンを、近所の独居老人にあげたりして愛徳を実践しました。
 ヘンドリーナの特徴は陽気なことと喜びでした。学校を卒業すると彼女は、7人の弟妹を抱える母の家事を助け、日に何時間かのはた織りをして家族と、家を新築していた父を助けました。また彼女には村の困っている人への目と心があり、村のすべての病人を見舞って村にはいなかった看護師の役目を果たし、豊かな家庭の患者から受けた贈り物はすぐ、貧しい人々にあげました。彼女はよく霊的慰めも、内的苦しみや隠された痛みも読み取って、忠告や慰めを与えたので、村人たちは彼女を信頼していたといいます。
 
 
生家の入口にあるプレート
 自分を完全に捧げてもっと親密に主に従いたいという望みから、彼女は19歳でフランシスコの第三会に加わりました。貧しいアシジのフランシスコの弟子としての12年間は、彼女の人間形成に決定的な影響を与えました。しかし聖フランシスコの弟子としても、彼女は自分のゴールにたどり着けませんでした。彼女は、修道生活と神との一致についての教えを深く吸収するほか、修道院で自分を完全に捧げて、もっと徹底的に釘付けられた主に従いたいという望みが大きくなるのに気付きました。けれどもこの当時ドイツはビスマルクによる文化闘争の時代となり、キリスト教は迫害され、修道院は国外に追われ、その道は断たれたかのようでした。
 最終的に道は、オランダ、シュタイルに向けて開かれました。ふしぎな導きで、1880年、ヘンドリーナはシュタイルの神言会で行われた聖霊降臨の40時間の礼拝に参加します。そこで彼女は、神への奉仕として、神のみ摂理会の修道女たちの台所の使用人として働いていた、のちのシスターアンナ、テレジア・シッケを見かけました。ヘンドリーナの心には、自分も彼女のようになりたいという思いが湧きました。3年後、もう一度そこを訪れた時、宣教修道女となるためにシュタイルへ来たヘレナ・シュトレンベルクが、テレジアと共に働き、祈っている姿を見かけました。彼女たちに加わるという望みが神のみ旨かと、真剣に自分の心に耳を傾けました。そして宣教神学院に、まず使用人として受け入れを願う手紙を書き、その願いは受け入れられました。彼女は32歳になっていました。
 1884年2月12日ヘンドリーナは、まだ存在していなかった修道会を待っていた他の人びとに加わり、神言会の宣教神学院の使用人となり、厳しい労働に従事しながらも、祈り黙想、霊的読書など、修道生活の日程をこなしていきました。5年間の待機の生活は彼女にとって砂漠の体験でしたが、その中で彼女は困難に耐え、神の意思を喜びにあふれて果たすことを身につけていきました。1886年の夏には、この志願者たちの群れは、神言会の敷地内の小さな家に移り、修道会創立に一歩進んだかに見えました。
 1889年12月、新しい修道院に移り、創立者が正式に修道会設立を宣言したときに、ヘンドリーナはすでに3人の仲間とともに、修道会の責任を担う共同創立者であり、また若い志願者の志願長でした。
1892年1月17日彼女は修道服とシスターヨゼファという名前を授かりました。1894年3月12日11名の同志と共に、7年間の誓願を立てました。1898年まで彼女は副修院長,志願長を務め、またすべての仕事の組織化や家業の面倒を見ました。その後で修院長となり、帰天するまでその役職に留まりました。彼女は1901年終生誓願を立てました。 
 彼女は聖霊に対して特別な愛と崇敬を持ち、聖霊から度々任務のために光と力を願っていました。彼女は「神なる聖霊よ、あなたの愛と栄誉のためにわたしは全生涯を捧げます。」と祈るのが好きでした。また、「聖霊のはしためは、一息ごとに『聖霊来てください』と祈るはずです。」とも言っています。
 その後、マザーヨゼファは喘息を病み、1903年5月20日に帰天しました。彼女の顕著な徳の思い出は、年と共に生き生きと増していきました。特に聖霊会の中で彼女の聖性の評判が続いたので、1950年ルールモントの司教は列福の調査をはじめ、ブラジルで起きた、マザーヨゼファの取次ぎによって致死の病から解放された男性の治癒が、奇跡と認められ、カトリック教会によって正式に、マザーヨゼファ、ヘンドリーナ・シュテンマンスが福者と認められて、冒頭の列福式が行われたのでした。マザーヨゼファの祝日は、彼女が天に召された記念日5月20日とされました。
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