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宣教修道者への道 ~The Way to a Missionary Sister~

シスターたちの召命体験記 ~どうしてシスターに?~

宣教地に行きたい! という強い願望がきっかけだった…

2019-09-28
注目
 わたしは、1932年にオーストリアで生まれ、兄弟姉妹は10人です。 幸せな家庭でした。 しかし、学校時代は、第二次世界大戦のために毎日に通うことができなくなり、 先生もいないし、 授業も少ししか受けられませんでした。
 初めて外国に 「宣教」に行きたい という呼びかけを感じたのは、戦争が終わり10代半ば頃に 神言会の雑誌 『神の国(Stadt Gottes)』  の中で、 アフリカの子供たちと一緒にいるシスターの写真を見たとき でした。 ずっと心の中に残っていました。
 
その後、日曜日に一緒にミサにあずかっていた友人が修道会に入ると言いました。 わたしの故郷にある修道会でしたが、そこは宣教会ではなく、 病人とお年寄りのお世話をする邦人会(外国に出ず、その国内で人々に奉仕する修道会)、でした。 そのときまで、 わたしは修道会に入るということは全く考えていなかったのですが、 アフリカの子供たちと一緒にいるシスターの写真を思い出し、 「宣教地に行く」ということが急に生き生きとしてきた のでした。
 わたしの教区の教会はアウグスチノ修道会の神父様たちが司牧していました。 神父様に宣教に行きたいがどうしたらよいかと相談したところ、 宣教の霊性がある良い修道会だということで、聖霊会を紹介してくれたのです。 そしてオーストリアのシュトッケラウにある聖霊会の本部に紹介状を書いてくれました。 しかしそこは行ったこともなく、親類も誰も知らないところでした。 うれしくもありましたが、家から離れるのは悲しく苦しいことでした。 当時は修道会に入ったら、もう二度と家には帰ることができませんでした。
シュタイルでの宣教派遣のための勉強風景
 シュトッケラウについたとき、 ここはわたしの場 だと感じました。 初誓願から4年目に、聖霊会が始まった場所、オランダのシュタイルに勉強のために送られました。 宣教地に行って子供たちに教えるためには、 教会の教えをきちんと学ぶ必要があったからです。
 6人いたシスターたちはみんな、異なる国に宣教派遣の任命を受けました。 わたしは 日本 への派遣でした。 それはわたしにとって、とても ショックギクッとしたマーク でした。 わたしが日本で何ができるのか、とても行くことはできないと、ローマの総本部に手紙を出しました。 しかし、返事は「必要なことは日本の管区が心配してくれるので 行きなさい」ということでした。
 オーストリアから1か月の船旅で香港に行き、そこで一緒だったシスター2人と別れてフィリピンへ向かいました。 わたしはそこから一人、飛行機で東京に到着しました。 1960年1月でした。
 日本の最初の印象は、まだ敗戦の痕跡が残っている、 ということでした。 仕事はたくさんありましたが、学校に行って日本語を勉強する機会は与えられませんでした。 それで日本人のシスターたちや職員と一緒に働くことによって日本語を習いました。 聖霊会は1908年に来日して以来、秋田をはじめ愛知、金沢、東京に病院、幼稚園、学校を始めていて、職員がたくさんいました。
 その後、1年くらい日本語を東京で学ぶ機会もあたえられました。 また料理の勉強をし、調理師の資格をとり、主に病院の台所で働きました
 
1987年 最初に日本から韓国に派遣された姉妹たち
 日本で25年以上宣教奉仕をした後、1987年に 韓国 に派遣されました。 韓国に聖霊会の新しい共同体を始めるためでした。 韓国では信者が多く、シスターはよく受け入れられていました。 姉妹たちの忍耐、注意深さ、愛を通して、共同体は早く成長し、召命もあり、韓国の姉妹たちは他の国にも派遣されるようになりました。 何年か韓国で使命を果たした後はまた日本管区に戻り、ベタニア共同体に移るまで修道院の中の 家政 の仕事をしてきました。
 宣教の主であるイエスは、わたしたちの忍耐と労苦を祝福してくださっています。 これまでたくさんの苦しいことを乗り越えることができたのは、自分の力ではなく、神への信仰と、神から無償でいただいた召命の恵みによるものと、心から感謝しています。
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